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東京地方裁判所 昭和32年(行)44号 判決 1965年4月30日

原告 岩淵友治 外四名

被告 東京国税局長

訴訟代理人 小林定人 外四名

主文

被告がいずれも昭和三二年三月二〇日付でした次の各審査の決定を取り消す。

(一)  原告岩淵の昭和二五、二六、二七年分所得税に関する審査の請求をそれぞれ棄却した各決定

(二)  原告大川の昭和二五年分所得税の総所得金額を金四五一、二一〇円とし、昭和二六、二七年分所得税に関する審査の請求をそれぞれ棄却した各決定

(三)  原告北沢の昭和二六年分所得税の総所得金額を金六七四、四〇〇円とし、昭和二五、二七年分所得税に関する審査の請求をそれぞれ棄却した各決定

(四)  原告小島の昭和二五、二六年分所得税に関する審査の請求をそれぞれ棄却した各決定

(五)  原告見目の昭和二五、二六年分所得税に関する審査の請求をそれぞれ棄却し、昭和二七年分所得税の総所得金額を金九七五、九一九円とした各決定

訴訟費用は、被告の負担とする。

事実

第一当事者双方の申立

一  原告らの申立

主文同旨の判決を求める。

二  被告の申立

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は、原告らの負担とする。

第二原告らの請求原因と被告の答弁

一  原告らの請求原因

1  原告らは、川崎税務署長に対し、昭和二五年ないし昭和二七年分(原告小島については、昭和二五、二六年分)所得税について、それぞれ次表第三欄記載の金額を総所得金額として確定申告したところ、同署長は、第四欄記載の年月日付でこれを第五欄のとおり更正し、これに対する原告らの審査の請求に対し、被告は、第六欄記載の年月日付で第七欄記載のとおり審査の決定をして、その頃各原告に通知した。

第一欄

第二欄

第三欄

第四欄

第五欄

第六欄

第七欄

原告氏名

年度

申告金額

更正年月日

更正金額

審査決定年月日

審査決定の内容

岩淵友治

昭和二五年

八五、〇〇〇円

昭和

三一、二、二五

二五二、九〇〇

昭和

三二、三、二〇

棄却 円

〃二六年

一二一、〇〇〇

三一、四、二四

五一八、六〇〇

〃二七年

一四四、〇〇〇

四三七、五〇〇

大川信春

〃二五年

一四四、〇〇〇

三一、二、二八

五一四、三〇〇

四五一、二一〇

〃二六年

一六五、〇〇〇

三一、四、二四

五二九、九〇〇

棄却

〃二七年

一八〇、〇〇〇

三六三、五〇〇

北沢三之助

〃二五年

二二六、六七三

三一、二、二八

四三〇、四〇〇

〃二六年

二六二、一〇〇

三一、四、二四

七五五、八〇〇

六七四、四〇〇

〃二七年

三〇六、八六六

九四五、三〇〇

棄却

小島春吉

〃二五年

二八〇、〇〇〇

三一、二、二八

四五四、二〇〇

〃二六年

三〇〇、〇〇〇

三一、四、二四

四三八、三〇〇

見目三子

〃二五年

一五一、〇〇〇

三一、二、二五

四六七、五〇〇

〃二六年

一八三、〇〇〇

三一、四、二四

六三三、一〇〇

〃二七年

二一〇、〇〇〇

一、〇六三、七〇〇

九七五、九一九

2  しかし、被告のした各審査の決定は、次に述べる理由により違法である。

(一) 川崎税務署長の更正及び被告の審査の決定は、原告らをいずれも独立の事業者として事業所得を認定しているが、原告らは昭和二五ないし二七年当時川崎生活協同組合の従業員として、同組合の事業に従事し、給与の支払いを受けていたものであつて、事業所得を有していたものではない。

(二) 原告らは、いずれも申告期限内に確定申告書を提出したものであるから、原告らに対する更正は、原告らが詐偽その他不正の行為により所得税を免れた場合を除き、確定申告書提出期限後三年以内に限られるところ、川崎税務署長の更正は、いずれも右期間経過後に行なわれており、従つて、仮りに、川崎生活協同組合が当時団体性を失ない原告らが独立の事業者であつたと認められるとしても、原告らには、詐偽その他不正の行為により所得税を免れた事実はないから、原告らに対して、更正をすることは許されないものである。

(三) 以上の主張が理由がないとしても、被告が審査の決定で認定した原告の所得金額は、いずれも過大である。

二  請求原因に対する被告の答弁

原告らの請求原因1の事実を認め、同2の主張を争う。

第三被告の主張

一  川崎生協の非団体性と原告らの立場

1  川崎生協の沿革

(一) 川崎生活協同組合(以下川崎生協と略称する。)は、もと産業組合法により有限責任購買利用川崎生活協同組合として設立されたものが、昭和二三年一〇月消費生活協同組合法により組織を変更したもので、本部を川崎市南喜町三丁目一四九番地に置き、「民主々義的精神に従い、組合員の文化的、経済的生活の擁護、向上を図り、もつてあまねく公共の福祉を増進すること」(定款第二条)を目的とし、川崎市一円にわたり、食品、燃料、衣料、雑貨等の物品販売業、理容、理髪等のサービス業、クリーニング、時計修理等の請負業、パン、菓子等の製造業等多種多様の事業を営む事業所を擁していたものである。

(二) 川崎生協は、その設立当初生活必需物資が統制品であつたため、その一括購入及び各需要者への配給のための機関として、組合本部が配給公団その他の指定生産会社より統制物資を受け入れ、これを組合の各施設に分荷し、各施設を通じて組合員に配給し、その売上代金は原則として本部が各施設より回収し、売上残品も日計表のような帳簿を各施設に備えつけさせて、本部においてこれを把握、統制し、本部及び各施設の従業員に対しては、毎月一定額の給料が本部より実際に支給されていた。従つて、当時は、川崎生協が団体性を保持しており、各施設の業務に従事していた者も、自ら個人営業を行なつていたものとは認められず、川崎生協の業務に従事していた給与所得者の地位にあつたのである。

(三) ところが、昭和二四年に入つた頃から、配給統制のわくが次第に緩和ないし撤廃されるようになつたので、川崎生協の取り扱う商品の種類、数量は漸次逓減し、他方自由物資が次第に増加して来たため、各施設では相対的に減少した本部分荷の統制品の外に、各施設において独自に自由物資の販売を行なうようになり、そのため、各施設が統制物資の販売代金として本来本部に納入すべき金員を自由物資の販売のために流用する傾向が現われ、次第に本部は統制物資の販売代金の回収が困難になつたばかりか、本部の取り扱う統制物資の逓減に伴なう収益の減少もあつて、本部において各施設の従業員に従来通り一定額の給料を定期に支払うことができなくなり、本部の各施設に対する統制は、次第に薄れ、反面、各施設は、自由物資の出廻りが潤沢になるにつれて、本部の監督統制を離れるようになつて来た。こうして、川崎生協の運営は、重大な局面に逢着したので、この窮状を打開するため、本部において自由物資の一括仕入をすることとし、青果、鮮魚等の自由物資を一括大量に仕入れ、各施設に分荷して、その代金を回収するという、いわば本部が卸商的な立場に立つて利益をあげようと試みたが、しかし、本部職員の共同仕入の不手際、在庫商品保管の不適切等の諸原因から、川崎生協の経理の赤字はますます増大し、昭和二四年半ばには、本部は金五百数十万円の買掛金債務を負うに至つた。

(四) このような事態に直面して、川崎生協は、数度にわたつて組合総会を開催し、組合を解散すべきかどうかを討議した末、昭和二四年八月の本部理事会において、いわゆる独立採算制を採用し、これによつて組合の危機を乗り切ることとした。

独立採算制とは、後に詳述するとおり、各施設が一般の個人商店と同様自己の責任で商品の仕入、販売をし、それによつて得た利益を独占享受するもので、川崎生協は、定款に掲げられた事業を自ら行なわないばかりか、各施設を通じて組合としての事業利益を現実に収受するようなこともなく、独立採算制採用以後の川崎生協は、組合としての団体性を失ない、各施設の経営者が自己の事業として事業所得を収受していたのである。

独立採算制採用後、川崎生協本部は、当時一般商店が所得税の繁瑣な納税手続を回避し、税負担の軽減を図る傾向にあり、各地に企業組合形式による租税回避のための形式的な団体が続出していたことにヒントを得て、個人営業者に対し、川崎生協に加入すれば、入会金(出資金と称した。)の外繰入金名義の一定額を毎月納入するだけで、従前どおり個人として事業を経営しながら、一切の税法上の負担及び繁瑣な手続を免れることができるとして、川崎生協への加入を勧誘し、このため独立採算制採用後多数の個人事業者の加入が見られた。

(五) 川崎生協は、このようにして団体性を失ないながら、毎月各施設から形式的な出入金の月報を徴し、これを適宜操作することによりあたかも組合活動を行なつているかのように仮装経理し、しかもなんら給与その他の支払いをしていないのに、毎月一定額の給与を各施設従業員に支給したように装つて、それに見合う源泉所得税相当額を施設主任より取得し、これを税務署に納付していたため、以上の事実は容易に露見しなかつたが、地元から所轄税務署長や神奈川県商工課等に投書があり、これに基づき東京国税局を中心に昭和三〇年八月一日から同月五日まで職員約二〇名によつて川崎生協本部及び各施設を一斉に調査した結果、ようやくその実態が把握されるに至つた。

2  係争年度当時の川崎生協の経営(いわゆる独立採算制の実態)

前述のとおり、川崎生協は昭和二四年八月の独立採算制採用以後組合の経営の実態が従来のものと異なることとなつたが、以下順を追つてこれについて述べることとする。

(一) 各施設の商品の仕入及び販売について。

独立採算制実態以後、川崎生協の各施設(店舗)は、自主的に配給品以外の商品を仕入れ、これを販売するという形態がとられるようになつた。

もつとも、川崎生協本部で各施設の取り扱う商品の一部を一括して仕入れ、これを各店舗に分荷した事実は認められるが、本部の共同仕入委員会が実際に業務を開始したのは、昭和二六年七月からであり、また、各施設の共同仕入による物資の取扱金額は、全施設の取扱金額の僅々五パーセント前後に過ぎず、各施設で販売した物資の大部分は、主任の自主仕入によるものであつた。しかも、施設のなかには、この共同仕入に協力しないところもあり、そのような施設では、売上にかかる物資は、全部その施設の責任者の自主仕入によるものであつた。

各施設の主任の自主仕入による物資については、本部に対して売上日報を報告することとなつていたが、本部では売上日報と納品書との点検等を行なつていなかつたので、主任の仕入について、正確なところまで本部の統制は及ばず、施設の経営内容の実態を本部は完全に掌握しておらず、むしろ、各施設の主任は、本部から干渉や統制を受けることなく、個人営業と変りない立場で、その施設の主任の一存で自由に商品を仕入れ、かつ販売することができたのである。

このような各施設の主任による自主仕入を廃し、統一経営に復帰するというような考えが、本件係争年度当時川崎生協本部にも各施設主任等にもなかつたことは、昭和二七年七月に「配給所の経営は自立採算制をとること」が再確認されていることからも明らかであり、統一経営の気運は、本件課税問題発生後に至つて、初めて醸成されたものである。

(二) 施設の剰余金について。

独立採算制実施以後、各施設における商品販売による利潤は、本部に回収されず各施設に利益として滞留され、川崎生協の決算書においても、組合の剰余金は、本部会計のものと施設会計のものとに区別されて二本建てに計上されており、本部会計の剰余金は、川崎生協の前年度繰越損失金勘定の補填に充てられているが、施設会計の剰余金は、その施設会計の翌期繰越とされており、両者は別個に経理され、独立採算制実施以前に発生した川崎生協の旧債務は、独立採算制実施以後には、各施設に一切負担させず、すべて本部の責任と負担において、旧債務の整理を行なうこととされていた。

しかし、もし独立採算制実施以後も、川崎生協が本部及び各施設を通じて全体としての団体性を保ち、法人の事業組織の下において当然行なわれるべき損益通算が行なわれていれば、独立採算制実施前に生じた組合の繰越損失金や旧債務については、各施設にもそれを負担させなければならないはずなのに、このようなことをせず、本部だけがその負担と責任を負うこととしたのは、独立採算制実施以後においては、各施設が本部から独立し、それぞれの施設において利益を留保蓄積して行つたものというほかなく、たとえ形式的に決算期に各施設の剰余金が合計され、それが総代会に提出されて、施設の剰余金処分案として審議されたとしても、川崎生協全体としての損益の通算は、独立採算制実施以後もはや行なわなくなつたものといわねばならない。

しかも、独立採算制実施以後は、各施設は、他の施設と独立して、それぞれの責任において経営をし、本部や他の施設から遮断され、全施設を通ずる川崎生協全体としての損益通算は、もはや、行なわることはなかつた。

このようにして、各施設に蓄積されて行つた剰余金は、各施設の主任に帰属し、それを組合が自由に処分することはできなかつたのであり、このことは、個人商店が川崎生協に加入するに当たり、加入時に店舗に存在していた棚卸商品を組合が買い取るというようなことはなく、また、組合から脱退するときも、その施設に蓄積された黒字相当額の現金、商品等を本部が引き掲げる等の清算も行なわれていなかつたことなどからも明らかというべきである。

(三) 本部繰入金について。

各施設は、本部経費をまかなうため毎月一定額を本部繰入金として本部に納入していたが、この本部繰入金は、本部が個人商店を吸収し、法人を仮装して、加入した個人商店の税務関係を処理するために必要となる本部経費をまかなうために、各施設より徴収する賦課金的な性格のもので、各施設の主任としては、本部に毎月一定額の繰入金さえ納めれば、残りの利益は本部に回収されることはなく、またこの繰入金の納付は、各施設の利益の有無にかかわらず、施設の主任が当然に負担すべきものであり、これを各施設から本部への利益の前渡しとみることはできないのであつて、それ故に、各施設の主任は、この繰入金の額の多寡について大きな関心を持つていたのであり、もしこの繰入金が各施設の決算前の利益の前繰入というような性格のもので、早晩各施設の利益が本部に全部吸収されるようなものであつたとすれば、各施設の主任は、この繰入金の額が本部でどのように決定されようと、たいした関心を持たなかつたはずである。

(四) 施設の現金管理について。

独立採算制実施以後は、施設の売上現金は本部に回収されず、各施設に滞留され、本部には日報により施設の売上げが形式的に報告されたにすぎず、施設の主任は本部とは無関係に現金を管理していた。

(五) 施設の借入金について。

各施設の営業資金その他の借入れは、施設の主任が必要に応じて自己の名義と責任において、借り入れ、返済を行ない、各施設間で資金が融通されることもなかつた。

もつとも、川崎生協本部が神奈川県労働金庫からの借入れを斡旋したことはあるが、右借入れは、各施設の主任が個人名義で労働金庫に積立金をした上、これを裏づけに借り入れたもので、その返済も施設の主任が施設の売上から返済しており、組合本部は、たゞ保証人となつて借入れを斡旋したり、あるいは借入金の返済の事務を代行したにすぎない。

(六) 施設の主任の給料について。

川崎生協においては、独立採算制実施以後、各施設の従業員の給料は、本部から月給袋に入れられて支給されたのでなく、単に本部から給料伝票簿により給料の額が各施設の主任に通知されただけで、それは本部と施設との間の表面上の取決めと帳簿上の操作にすぎず、現実には、各施設の主任は施設の現金を自由に家計費に使用していたのであつて、そのため施設の主任は、本部より通知される給与の額がいくらであるかについては関心がなかつた。従つて、各施設の主任は、形式的には、本部から給料の支給を受けて生活する組合の従業員となり、源泉所得税を納付するような形態をとつていたが、これは単なる表面だけのことにすぎなかつた。

(七) 施設の建物設備等の組合への賃貸について。

川崎生協の施設の建物、設備等の大部分は、各施設の主任が所有していたものであるが、これら施設の主任の所有する建物設備については、表面的には施設の主任がこれを川崎生協に賃貸し、月々組合から賃貸料の支払いを受けるという形式がとられていたが、その実質は、なんら組合から賃貸料の支払を受けるものではなく、従つて施設の主任も賃貸料の額に無関心で、川崎生協加入前の個人営業時代と全く変りない状態で営業用店舗の建物設備等をその施設の主任が所有し、管理していたのであり、その改築費などもすべてその施設の主任が負担することとなつていた。

(八) 利用組合員の実態について。

川崎生協の定款第五三条には、「組合の事業は原則として組合員またはその家族でなければ利用できない」と定められているが、組合の各施設の主任は、一般の個人商店と同様に自由に組合員以外の顧客にも商品を販売し、員外利用禁止に関する観念は極めて稀薄であり、このことは、川崎生協の総代会、本部役員会で再三この問題が論議されていることからも明らかである。

しかも、組合に加入した各施設の主任は、組合加入に際して、自己の確保すべき利用組合員数を充足するために、利用組合員の払い込むべき出資金を自ら立て替えて納入し、仮装の利用組合員をつくつて川崎生協に加入するという形式をとつたため、組合は多数の名目的な利用組合員を擁することとなり、組合員の実態把握は極めて困難で、員外利用を禁止することはほとんど不可能であり、各施設の主任は、組合員であろうとなかろうと施設を利用させていた。

3  川崎生協の非団体性(法人仮装性)

以上詳述したように、独立採算制実施以後の川崎生協は、

<1> 各施設において、本部からの統制、干渉を受けないで、個人営業と変りない立場で、自由に商品の仕入、販売を行ない、

<2> 各施設の会計は、本部や他の施設の会計と遮断され、剰余金は各施設に蓄積されて、組合全体としての実質的な損益通算は行なわれず、

<3> 施設の川崎生協への加入及び脱退に際して、合理的な経理が行なわれておらず、

<4> 各施設は、本部に一定額の繰入金を納付するだけで、残りの営業利益を独占享受し、

<5> 売上現金の管理も各施設で行ない、

<6> 各施設の借入金は、施設の主任が自己の名義と責任で行ない、

<7> 各施設従業員に対する本部からの給与の支給は、形式的な帳簿上の操作にすぎず、各施設の主任は自ら管理する手持現金によつて自由に生活費をまかない、

<8> 各施設の主任の所有する営業用建物設備に対する賃貸借も形式的なもので、現実に賃料が支払われることはなく、

<9> 各施設の主任は、組合員以外の施設利用を自由に許していた、

という実態にあつたのであるから、独立採算制実施以後も、各施設の主任が組合の従業員であり、給与所得者であつたということはできない。

とりわけ、独立採算制以後川崎生協に加入した多数の個人商店は、本部役員が川崎生協に加入すれば本部繰入金を納めるだけで税金関係の手続から解放されるとの勧誘に応じて、税金が安くなることを主眼に、あるいは販路が拡張できたりして経営が有利になるであろうという見地から、川崎生協に加入したのであつて、これら新規加入者が、組合加入後に組合の従業員となり、給与所得者となつたとは、到底考えられないところである。

それ故、昭和三〇年八月の東京国税局の調査の後、川崎税務署長が各施設の主任に対し、事業所得者として確定申告をするよう勧奨したところ、大部分の施設主任がその旨の確定申告書を提出したのである。

4  川崎生協における原告らの立場

(一) 原告岩淵は、もと菅原電気株式会社に勤務していたが、昭和二四年春頃川崎生協に加入し、同組合の中野島配給所(組合施設)の主任となり、食料品、燃料、石けん等を販売していたが、本件課税問題にからんで、税金の始末は川崎生協が面倒をみるという約束であつたのに、約束が守られず、自己の責任でそれを処理しなければならなくなつたため、組合と物議をかもし、昭和三二年三月末組合を脱退し、有限会社「久美の屋」を設立して、引続き事業を営んでいる。

原告大川は、もと池貝鉄工所に勤務していたが、会社を退職し、昭和二四年一〇月頃から川崎生協の御幸第三配給所の主任として食料品の販売業を営むかたわら、製麺業、アイスキヤンデーの販売等をしていたが、昭和三一年三月末頃川崎生協を脱退した。

原告北沢は、三機工業株式会社に勤務中から、川崎生協の前身である有限責任購買利用川崎生活協同組合に加入し、居宅を同組合の配給所として賃貸し、妻ちよ子が同組合の配給に従事していたが、その後、配給登録人員の増加に伴ない業務が忙しくなつたため、同原告は、昭和二四年四月頃会社を退職し、右組合改組後の川崎生協の渡田山王配給所の主任となり、味噌、醤油、木炭、青果、酒類等の販売をしていたが、本件課税問題にからむ税金の負担について、川崎生協本部と物議をかもし、昭和三一年五月組合を脱退した。

原告小島は、もと農業及び野菜類の仲買をしていたが、有限責任購買利用川崎生活協同組合に加入し、その居宅において、同組合の青果、食料品等の配給業務に従事し、その後同組合改組後の川崎生協の塚越配給所の主任となり、酒類、青果、鮮魚、食料品等の販売に従事していたが、本件課税問題の税金の負担にからんで、昭和三一年三月組合を脱退した。

原告見目は、もと有限責任購買利用川崎生活協同組合に加入し、同組合の配給業務に従事していたが、その後川崎生協鹿島田第二配給所の主任となり、食料品、青果、鮮魚、燃料等の販売にたづさわり、昭和二六年末頃からは理髪業を兼営するまでに発展した。しかし、本件課税問題に端を発し、昭和三二年三月末頃組合を脱退し、鹿島田家庭生活協同組合を設立して従来の事業を承継しようとしたが、設立認可を得ることができなかつたため、昭和三三年三月株式会社鹿島田共栄市場を設立し、その代表取締役に就任して、従来の事業を承継した。

(二) このように、原告らは、いずれも川崎生協設立当初頃より、組合の配給業務に従事し、独立採算制実施以後も、かつての配給登録者を中心とする顧客に対して物品販売を行なつていたのであるから、独立採算制実施後新たに加入した個人商店などと比べれば、組合の歴史的な事情に明かるく、生活協同組合のなんたるかもよく理解していたであろうことは想像に難くないところであり、その意味において、原告らが組合意識を強くもち、組合精神をわきまえていたことは事実であろう。

しかし、原告らが係争年度当時実質上事業の経営者として、事業所得を有していたかどうかは、そのような抽象的、観念的な事実に左右されるのではなく、原告らの施設の運営が、他の施設責任者とどのように異なり、川崎生協本部ないし原告らの所属する支部が、他の施設に対すると異なる指導統制をとつていたかどうかが問わるべきであり、換言すれば、原告らは、独立採算制実施後も、他の施設主任にみられるような施設単位の現金管理(給料、賃料の支払形式を含めて)をしていなかつたのか、施設に滞留されていた剰余金は組合に帰属することとなつたのか、あるいは、資金の融通調達方法が組合本部によつて行なわれていたのか、などの諸点が具体的に明確にされなければならないのである。

しかるに、原告らがこれらの諸点において、先に述べた各施設の場合と特に異なつていたと認むべき具体的な事実はなにもうかがわれない。

もつとも、原告らが、先に述べたとおり、川崎生協の設立当時からその配給業務に従事していた関係上、原告らの施設を利用する顧客に比較的組合員が多く、また原告らの施設について川崎生協の支部組織がかなり整備されていたことは事実であろうが、原告らは、組合員以外の一般の顧客にも施設を利用させていたのであり、また原告らは、その仕入れに当たつては、いずれも個人として問屋等と取引をし、現金または個人名義の小切手でその支払いをしており、現金を現実に管理し、さらに、施設の剰余金についても、本部繰入金の外、支部の活動費として毎月定額を負担していた事実は認められるにしても、それは、原告らの各施設が、施設ごとに独立していて、本部繰入金、支部活動費負担分以外の剰余金を各施設に滞留していたことを示すものであり、支部単位においても、各施設の損益通算が行なわれることはなかつたのである。

従つて、原告ら五名だけが、独立採算制実施後も、他の施設とは異なり、川崎生協の一機関として事業にたずさわり、原告らの施設から生じた収益が、組合ないし支部に帰属し、原告らには帰属しなかつたというようなことはなかつたといわねばならない。

(三) そのため、原告らは、東京国税局の調査後、川崎税務署長の勧奨を受けて、係争年度である昭和二五ないし二七年分所得税について、事業所得者として確定申告をしたばかりか、川崎生協脱退前の昭和二八、二九年分所得税についても、同様の確定申告書を提出しているのである。

従つて、原告らが、その施設の営業から生ずる収益を自ら享受しているものと認め、所得税法第三条の二にいう実質課税の原則に基づき、原告らを事業所得者と認定した被告の処分には、なんら違法は存しないものというべきである。

二、更正の期間制限について

原告らは、確定申告書を法定の提出期限内に提出したから、右期限後三年を経過した後は、更正処分をすることができないと主張する。

しかし、原告らは、昭和二五ないし二七年分所得税の確定申告書を申告期限内に提出した事実はなく、いずれも右期限経過後の昭和三〇年一二月二八日に確定申告書を提出したものである。

昭和二六年法律第六三号(昭和二六年四月一日施行)による改正後の所得税法第四六条の三第一項には、確定申告書を提出した者については、これらの申告書の提出期限から三年を経過した日(その日前にこれらの申告書の提出があつた場合には、その日とこれらの申告書を提出した日から二年を経過した日とのいずれか遅い日)以後においては更正をすることができない旨のいわゆる更正の期間の制限が定められており、同規定は昭和二六年分以後の所得税から適用されることとなつているが、原告らの昭和二六年分のように申告書の法定提出期限から三年を経過した後に確定申告書が提出された場合には、この条項の適用はなく、同条第二項に定められた、詐偽その他不正の行為により所得税を免れた事実があるかどうかにかかわらず、会計法の規定により時効が完成するまで、すなわち、申告書の提出期限から五年を経過するまで更正をすることが出来るのである。

また、原告らの昭和二七年分のように、申告書の提出期限から三年を経過した日前に期限後の確定申告書が提出された場合には、前記条項により、確定申告書の提出期限から三年を経過した日と期限後の確定申告書提出の日から二年を経過した日とのいずれか遅い日の前日までは更正をすることが出来ることとなる。

なお、昭和二六年法律第六三号附則第九項は、「昭和二五年分について、確定申告書、損失申告書又は所得税法第二十九条第一項に規定する申告書を提出した者については詐偽その他不正の行為により当該年分の所得税を免れた場合を除く外、昭和三十年四月一日以降は、時効期間満了前でも、第六項の規定にかかわらず、当該年分に係る同法第四十四条又は第四十六条の規定による更正又は決定をすることができない。」と規定されているが、原告らの昭和二五年分のように確定申告書を昭和三〇年四月一月までに提出しなかつた者については、この規定の適用はなく、会計法の時効の規定により、確定申告書の提出期限から五年を経過するまで、更正をすることが出来るのである。

従つて、これを本件課税にあてはめると

(1)  昭和二五年分については、確定申告書の提出期限である昭和二六年二月二八日(昭和二五年法事第二八二号所得税法臨時特例法第二条により、確定申告書の提出期限の一月三一日は二月二八日と変更された。)から起算して五年目の昭和三一年二月二九日(昭和三一年は閏年である。)

(2)  昭和二六年分については、同様確定申告書提出期限から起算して五年目の昭和三二年二月二八日

(3)  昭和二七年分については、確定申告書の提出日から二年を経過した日の前日の昭和三二年一二月二八日

が、それぞれ、本件係争年度分について更正をすることとができる最終期限であり、原告らに対する各更正は、原告らの請求原因1において主張するとおり、いずれも右期限前に行なわれているから、この点において原告らの主張するような違法はない。

三、原告らの所得金額について。

1  原告岩淵について。

所得額の審査に当つては、実地調査によつてその実額の捕捉に努めたが、原告岩淵方には、仕入関係を記録した日記帳と断片的な記録があつただけで、川崎生協加入当時の営業の収支を明らかにするに足りる帳簿書類の備え付けがなかつたので、右の日記帳によつて仕入金額を算出し、同原告の所持するメモによつて期首期末棚卸額を認定し、これによつて算出される売上原価に所得標準率による売買差益率(金一〇〇円当たり、昭和二五年分は金一九円七〇銭、昭和二六年分は金一五円四六銭、昭和二七年分は金一六円五八銭)によつて売上金額を逆算し、必要経費不明のため、売上金額に所得標準率(金一〇〇円当たり、昭和二五年分は金一五円、昭和二六年分は金一一円四〇銭、昭和二七年分は金一二円二〇銭)を適用して所得金額を算出し、これより特別控除として、同原告申立の値引(値引率は、昭和二五年分二パーセント、昭和二六年分一・九パーセント、昭和二七年分二・一パーセント)、雇人費及び本部繰入金(本部繰入金は、前述のとおり法人事業仮装の手段に供せられたもので本来必要経費に算入すべきものでないが、いわば記帳整理費用にあたるものとして、原告らに有利に必要経費として扱うこととした。以下各原告に同じ。)を控除して算出所得額を計算すると、次表のとおり各年分とも原処分の認定額を上廻るので、審査の請求をいずれも棄却した。

科目

昭和二五年

昭和二六年

昭和二七年

売上金額

二、五六三、八一九円

六、三九四、七八三円

五、二二二、六七七円

売上原価

二、〇五八、七四七

五、四〇五、六一六

四、三五六、五八二

計算内訳

期首棚卸額

一八二、一二〇

一三五、一三四

仕入金額

二、〇五八、七四七

五、三五八、六三〇

四、四二〇、八六八

期末棚卸額

一三五、一三四

一九九、四二〇

所得金額

三八四、五七二

七二九、二五二

六三七、四九六

特別控除科目

値引金額

五一、二七六

一一八、八九二

一〇九、八八〇

雇人費

六〇、〇〇〇

六〇、〇〇〇

六〇、〇〇〇

本部繰入金

一五、〇〇〇

一八、七〇〇

二四、三〇〇

算出所得金額

二五八、二九六

五三一、六五九

四四三、三一六

原処分認定額

二五二、九〇〇

五一八、六〇〇

四三七、五〇〇

2  原告大川について。

原告大川については、同原告の所持する組合加入当時の収支計算書を中心にして調査を進めたが、売上金額の計算については自家消費分の計上洩れがあり、必要経費についても計算誤りがある等、この収支計算をそのまま是認することができなかつたので、同原告所持の証憑書類及び申立を参酌し、取引先等を反面調査して、昭和二五、二六年分については、次表のとおりその実額を捕捉して所得金額を算出したが、これによれば、昭和二五年分については、原処分の認定額が過大であると認められたので原処分の一部を取り消し、昭和二六年分については、審査の請求を棄却した。

もつとも昭和二六年分の製麺関係の所得計算については実額調査の方法によれなかつたので、使用小麦粉の袋数を基礎にして売上金及び売上加工手数料を計算し、これに所得標準率(売上については、金一〇〇円当たり金一五円、加工賃については、金一〇〇円当たり金六六円)を適用して所得金額を推計した。

科目

昭和二五年

昭和二六年

売上(収入)金額

二、四三七、五一四円

三、五二六、四二二円

内訳

食料品

一、九五一、四〇五

三、四二七、二二二

製麺

三三二、五六九

冷菓

一五三、五四〇

九九、二〇〇

売上原価

一、七〇六、九一八

二、八一六、五九九

計算内訳

期首棚卸額

三三、五〇一

六三、五二六

仕入金額

一、七三七、七二五

二、八四八、三二八

期末棚卸額

六四、三〇八

九五、二五五

差益金額

七三〇、五九六

七〇九、八二三

必要経費

公租公課

八、九二二

五九、九九〇

荷造・運賃

一、四二〇

水道・光熱費

二七、四五七

一五、二九八

旅費・通信費

一、〇七七

二、八五九

広告・宣伝費

五、六四五

六、三六〇

交際費

三、一七七

六、五六〇

支払利息

二、〇〇〇

火災保険料

一、二〇〇

一、二〇〇

修繕費

一二、七九八

三〇、四三八

消耗品費

二九、六二七

三六、一四二

雑費

四三、九二六

一四、二五〇

雇人費

九一、〇〇〇

三、五〇〇

減価償却費

一〇、八六六

一〇、二四八

地代・家賃

一、二〇〇

一、二〇〇

本部繰入金

三七、五〇〇

二一、〇〇〇

諸会費

一、二五〇

配給損

三、五九六

二七九、四一一

二一二、二九五

雑収入

三〇

一、六〇〇

算出所得金額

四五一、二一五

四九九、一二八

製麺関係所得金額

四八、八八四

合計所得金額

四五一、二一五

五四八、〇一二

原処分認定額

五一四、三〇〇

五二九、九〇〇

昭和二七年分については、実額を捕捉することが出来なかつたので、取引先を調査して仕入金額を認定し、所得標準率による売買差益率(金一〇〇円当たり食料品関係は金一八円五三銭、はがき類は金五円)により売上金額を算出し、必要経費不明のため、売上金額に所得標準率(金一〇〇円当たり食料品関係金一四円三一銭、はがき類二円五〇銭)を適用して所得金額を推計し、二%の値引金額と本部繰入金を控除すると、次表のとおり原処分認定額を上廻ることとなるので、審査の請求を棄却した。

区分

科目

金額

食料品(はがき類を除く)関係

売上金額

三、八三一、八八二円

仕入金額

三、一二一、五〇九

所得金額

五四八、二九五

特別控除科目

値引金額

七六、六三七

本部繰入金

二四、六〇〇

算出所得金額

四四七、〇五八

はがき類関係

売上金額

二四六、五七八

仕入金額

二三四、二五〇

算出所得金額

六、一六四

合計所得金額

四五三、二二二

原処分認定額

三六三、五〇〇

3  原告北沢について。

原告北沢の提示した帳簿書類は、売上、仕入日記帳(昭和二七年分については日記帳に代わる日計表)だけで、証憑類の保存も完全でなく、その実額を捕捉することができなかつたので、主要な取扱商品である青果、酒類、燃料、砂糖等の仕入先を調査して取引額を確認し、あわせて同原告の申立等をも参酌しながら収支計算したところ、次表のとおり、昭和二六年分については、原処分の認定額が過大であると認められたので、原処分の一部を取り消す旨の決定をし、昭和二五、二七の両年分については、原処分の認定額がむしろ過少であると認められたので、それぞれ審査の請求を棄却した。

科目

昭和二五年

昭和二六年

昭和二七年

売上金額

六、四七七、一〇一円

一〇、〇五四、三六九円

一四、九九〇、九九七円

売上原価

五、七一三、四七六

八、八八六、一七九

一三、〇四八、六六二

計算内訳

期首棚卸額

一五〇、五三七

一七〇、三一五

二二八、一三五

仕入金額

五、七一三、四七六

八、八八六、一七九

一三、〇四八、六六二

期末棚卸額

一五〇、五三七

一七〇、三一五

二二八、一三五

差益金額

七六三、六二五

一、一六八、一九〇

一、九四二、三三五

必要経費

公租公課

六、二四五

五六、九三三

九三、六五六

荷造・運賃

二〇、六五〇

七〇、二〇〇

六七、七一八

水道・光熱費

一二、三九〇

一六、〇二〇

二八、三八五

旅費・通信費

一、一二八

一、四四〇

二、〇〇〇

広告・宣伝・交際費

七、六〇〇

四七、九四〇

一一三、二〇〇

修繕費

二六、七〇〇

二八、八四〇

一四、七五〇

消耗品費

一七、七二〇

五七、四九四

七三、二〇〇

福利厚生費

五、一〇〇

一、五〇〇

八七、六六八

雑費

六八、六一五

二二、八八〇

二〇五、八〇〇

雇人費

五二、〇〇〇

三九、七〇〇

六九、七七六

減価償却費

一九、八一二

四八、四四六

一八、四七一

本部繰入金

一四、〇〇〇

四八、〇〇〇

六〇、〇〇〇

配給損

一〇、〇〇〇

五四、三八〇

三七、七五〇

二六一、九六〇

四九三、七七三

八七二、三七四

差引所得金額

五〇一、六六五

六七四、四一七

一、〇六九、九六一

原処分認定額

四三〇、四〇〇

七七五、八〇〇

九四五、三〇〇

4  原告小島について。

原告小島の提示した備付帳簿書類は完全でなかつたので、売上先等を調査してその取引額を確認し、あわせて記帳の一部及び同原告の申立等をも勘案して収支計算を行なつたところ、次表のとおり各年分とも算出所得金額が原処分の認定額を上廻つたので、審査の請求をいずれも棄却した。

科目

昭和二五年

昭和二六年

売上金額

五、五六五、二九三円

七、一六九、六二八円

売上原価

四、七〇二、九〇五

六、一七七、一一四

計算内訳

期首棚卸額

一〇九、四四〇

一四四、〇〇〇

仕入金額

四、七三七、四六五

六、一八八、八二九

期末棚卸額

一四四、〇〇〇

一五五、七一五

差益金額

八六二、三八八

九九二、五一四

必要経費

公租公課

二、九二〇

五五、〇五〇

荷造・運賃

四二、〇〇〇

二八、〇〇〇

水道・光熱費

九、六五〇

一五、九五〇

旅費・通信費

五、八二〇

一二、一〇〇

広告・宣伝費

七、〇五七

一〇、一〇〇

交際費

五、二〇〇

六、二〇〇

修繕費

三一、二〇〇

四五、〇〇〇

消耗品費

三六、五九八

四二、〇〇〇

雑費

一九、五〇〇

一二、一〇〇

雇人費

三八、〇〇〇

四九、〇〇〇

燃料費

一一、二〇〇

減価償却費

一二、五九〇

二六、七〇四

地代・家賃

七五〇

七五〇

本部繰入金

三三、六〇〇

四〇、八〇〇

割戻金

九一、八〇五

一二三、四九二

三三六、六九〇

四七八、四四六

雑収入

六七、六三二

七四、四九一

算出所得金額

五九三、三三〇

五八八、五五九

原処分認定額

四五四、二〇〇

四三八、三〇〇

5  原告見目について。

原告見目から提示された帳簿書類を中心として収支の実額を的確に捕捉することに努めたが、提示された売上仕入を記録した日記帳、経費の支出を記録した経費帳はともに年間を通じ継続して整然と記帳されているものではなく、その証憑書類も完全には存在していなかつた。そこで、同原告の保存する仕入伝票を基礎として年間の仕入金額を算定し、取扱品目ごとに算出した売買差益率により売上金額を逆算し、本人の申立及び記帳内容をも勘案して必要経費を計算すると、所得金額は次表のとおりとなり、昭和二七年分については、原処分の認定額が過大であると認められたので一部取り消し、昭和二五、二六年分については、審査の請求を棄却した。

科目

昭和二五年

昭和二六年

昭和二七年

売上金額

六、二三七、〇六七円

一二、八〇七、七一七円

一四、〇一八、八〇九円

売上原価

五、二一一、六九四

一〇、七六七、四四八

一一、六二六、〇二六

計算内訳

期首棚卸額

一二一、七八八

四〇一、六二九

四〇六、六二二

仕入金額

五、二一一、六九四

一〇、七六七、四四八

一一、六二六、〇二六

期末棚卸額

一二一、七八八

四〇一、六二九

四〇六、六二二

差益金額

一、〇二五、三七三

二、〇四〇、二六九

二、三九二、七八三

必要経費

公租公課

一九、五八〇

六九、〇五三

八一、六九二

荷造・運賃

二〇、四〇〇

一〇〇、八〇〇

一二五、八八〇

水道・燃料・光熱費

四、六五四

二六、二一二

三六、八五一

旅費・通信費

一一、六五六

四一、九九三

広告・宣伝費

一四、九〇〇

二〇、一四〇

三二、六九〇

交際費

八、一〇〇

支払利息

一、〇八〇

火災保険料

九、六一二

一二、四〇一

一九、六五〇

修繕費

三二、二八〇

四〇、〇六〇

三九、〇四五

消耗品費

八六、一八九

六八、六〇八

一五一、三九二

福利厚生費

七、六五〇

八、〇〇〇

四、七五〇

雑損失

一、三八〇

雑費

八、七一〇

七、〇二〇

一五九、九五〇

雇人費

一七八、〇〇〇

四八三、六〇〇

六八二、七〇〇

減価償却費

一九、〇〇八

二七、八一三

三二、三八八

本部繰入金

一八、〇〇〇

三六、〇〇〇

七四、五〇〇

値引・割戻金

二五六、一五四

六、六三八

四一八、九八三

一、一六七、五一七

一、五〇〇、六七九

雑収入

六四、〇九二

八三、八一五

算出所得金額

六〇六、三九〇

九三六、八四四

九七五、九一九

原処分認定額

四六七、五〇〇

六三二、一〇〇

一、〇六三、七〇〇

(註) 昭和二七年分売上金額には、理髪収入

金 一九六、四〇三円を含む。

第四被告の主張に対する原告らの答弁と反論

一  川崎生協の沿革

1  被告の主張一の1の(一)及び(二)の事実を認める。

有限責任購買利用川崎生活協同組合は、終戦直後川崎市所在の工場の従業員を組合員とし、各工場ごとに組合員に対し生活必需物資の配給をしたのが始まりで、参加工場の主なものとしては、東京芝浦電機の全工場、池貝鉄工所、三機工業所、東京製鋼、三菱重工業、東日本重工業川崎事業所等があつた。その後、組合員の要望により、地域にも配給所を設けることとなり、大体三〇〇世帯を一区域として、一区域ごとに一つの配給所を設置し、そこに組合の支部事務所を置いた。

昭和二三年一〇月法令の改正により、名称及び組織を変更して、川崎生活協同組合となつたが、配給所の数は、昭和二三年頃が一二、三、昭和二五年頃が約四〇、昭和二六年頃が約七〇、昭和二七年頃が約一〇〇、昭和二八年頃が約一三〇であつた。

2  被告の主張一の1の(三)の事実のうち、昭和二四年に入つて、次第に組合計理に赤字が増大したことは認めるが、その原因及び額は否認する。

川崎生協の赤字の額は、当時約一六〇〇万円に及んだのであるが、その原因は、川崎生協がその頃川崎市内で唯一の魚類荷受権者であつたところから、組合員用だけでなく、一般市民用の魚類も荷受けしていたのに対し、その一般用のものについて、売掛代金が多額に回収不能となつたこと、組合本部が経営に不なれであつたため人件費がかさみすぎたこと、一部組合員の中に売上金を横領する者が出たことなどであつて、自由物資の販売とは関係がない。

3  被告の主張一の1の(四)の事実のうち、組合総会を開いて解散するかどうかを討議したこと、その結果いわゆる独立採算制と称する経営方法を採用したこと、独立採算制採用後川崎生協が個人商店の組合加入を勧誘したことは認めるが、独立採算制の内容及び勧誘の方法は否認する。

川崎生協は、前述のような原因から赤字が累積し、そのため川崎生協本部としては、問屋、銀行等より取引を停止され、従来通り本部として商品を取り扱うことができなくなつたが、単なる営利団体と異なり、当時一万人からの組合員を擁し、零細な出資金を集めて生活協同組合の理想の下に運営されていた川崎生協としては、無責任な解散をすることはできなかつたので、一時各施設の主任の信用等を利用して配給業務を続けるため、過渡的な形態として、やむを得ず独立採算制を採用したもので、出来るだけ早い機会に一括仕入に戻すことに努力した。

もつとも、独立採算のもつもう一つの側面である支部本位の運営ということは、独立採算制の採用の当否が問題となる以前から、川崎生協の民主的団体としての活動原則として、討議されていたものである。すなわち、昭和二四年三月二五日に開催された第五回通常総会に提案された「運動方針に関する件」と題する議案書において、川崎生協創立以来の活動形態が、下部の組合員組織のはく弱な中央集権的経営方法であつたことについては、配給所、職域支部の主体的な力や取引経験が乏しかつた初期においては、正しい経営のあり方であつたとして、これを評価しながらも、組織、経験の充実と経済状勢の進展よりして、今後は、川崎生協全体の指導力を強化するため、業務活動の重心を支部配給所に移し、本部は指導、連絡渉外等の任務に主力をそそぐべきであるという、支部分権制ともいうべき方針を打ち立てているのであり、この方針は、川崎生協全体の指導力を強化するという観点に立つているのである。

被告が、このような観点をことさら見のがすのは、民主的団体として、その理想の実現をはかるという川崎生協の本質を無視するものである。

二  川崎生協の組織

1  組合員

川崎市内に住居または職場を持つ消費者が一口金一〇〇円の出資をして組合員となり、組合員は数名ごとに班を組織し、三〇〇名以上の組合員が一定の職域、地域またはその結合のなかに集つているときは、支部を組織することができる。

本部は、組合員、班、支部の活動を統一、指導し、班は支部に属し、支部がないときは、組合員及び班は本部に直属する。

2  機関

(一) 総代会

川崎生協の最高機関は、各支部(支部がないときは、理事会でまとめて適当な支部に加えるか、または独立の選挙区を作る。)を選挙区として選出された組合員の総代によつて構成される総代会で、あり、総代会は、毎事業年度(毎年四月一日より九月三〇日までと一〇月一日より翌年の三月三一日までを各一事業年度とする。)に一回通常総代会を開催し、その他定款の定めにより、臨時総代会が開かれる。

(イ)定款の変更、(ロ)毎事業年度の事業計画、(ハ)収支予算、(ニ)出資一口の金額の減少、(ホ)借入金額の最高限度、(ヘ)事業報告書、財産目録、貸借対照表、剰余金及び損失の処理、(ト)組合員の除名及び役員の解任、(チ)連合会への加入及び脱退等の重要事項は、総代会の必須議決事項である。

組合の施設の営む事業内容の過去の報告及び将来の方針は、総代会で明細に発表され、承認される。

(二) 役員

組合員の中から、総代会において理事一二名、監事三名が選挙され、理事の互選で組合長が選ばれ、対外的に代表する。

理事によつて構成される理事会が、総代会の決議に基づき対内的業務執行権をもち、監事は、毎事業年度二回組合財産、業務の執行状況を監査する。

理事は、施設運営委員会、共同仕入委員会、経営指導委員会、組織指導委員会、共済委員会等の専門委員会に別れて、組合活動を調査、指導する。

(三) 支部機関

支部のあるところでは、総代会に準じて、通常及び臨時の支部総会または支部総代会が開かれ、支部段階の重要事項を議決する。

支部には、支部役員として、支部組合員から支部長、副支部長、支部会計、監事、常任委員等の役員が選出され、支部長は、支部を代表して支部の仕事を統括し、支部常任委員は、常任委員会を開いて、本部理事会、支部総会(または支部総代会)の決定に従い支部の業務を執行し、その他の役員は、本部役員に準ずる。

班は、本部または支部の指示に基づき、協力して活動する単位である。

(四) 従業員

組合事業遂行のため、組合に職員が雇傭され、組合長が任免権を持つ。職員は、本部事務員と各事業所担当者に別れ、本部または支部の役員の指示の下に仕事を行なう。

3  事業

(一) 事業目的

川崎生協の事業目的は、次のとおりである。

(イ) 組合員の生活に必要な物資の協同購入とその分配

(ロ) 組合員の生活に有用な施設の運営、協同利用

(ハ) 組合員の生活改善と文化向上のための諸施策

(ニ) 組合員及び組合従業員の教育

(ホ) 組合員の共済

(二) 施設

右の事業遂行のため、地域、職域に事業所(施設または店舗または配給所という。)が置かれ、事業所担当者(主任という。)が仕事に従事する。

支部がある場合に、支部と施設との関係は、一応別個の組織関係であるが、一施設を利用する地域、職域の組合員が集まつて一支部を構成するのが常態である。

三  係争年度当時の川崎生協の経営(いわゆる独立採算制の内容)

1  独立採算制の組織面

(一) 機関の活動

組織体が組織体としての特色を発揮するためには、その目的に即した統一的な意思が一定の機関によつて定期的に形成され、その意思がさらに一定の執行機関によつて、対内的、対外的に執行されて行くことが必要である。

川崎生協の最高決議機関である総代会が、独立採算制実施後も定期的に会議を開いてその機能を発揮していたことはいうまでもないが、執行をつかさどる理事会等も十分その機能を発揮していたのである。すなわち、一例をあげれば、昭和二六年前半期(昭和二六年四月一日より同年九月三〇日まで)において、理事会一一回、常務理事会二回、共済会運営委員会五回、施設委員会九回、五周年記念行事実行委員会一九回、地区協議会五一回、共同仕入委員会四回の会議が開かれており、同年後半期(同年一〇月一日より昭和二七年三月三一日まで)には、理事会一〇回、常務理事会四回、施設運営委員会一二回、共済運営委員会三回、共同仕入委員会四回の会議が持たれ、昭和二七年期(昭和二七年四月一日より昭和二八年三月三一日まで)には、理事会一二回、常務理事会一一回、監事会五回、共同仕入委員会二五回、経営指導委員会一八回、組織指導委員会六回の会議が開かれているのであつて、これらの事実は、川崎生協の組織、機関面での活動が、むしろこの種の民主的組織にはめずらしいくらい、正常かつ原則的に機能していたことを示すものである。

(二) 自律的活動

川崎生協が株式会社等の営利団体と違う点は、利益を追及するのではなく、労働者、零細市民等が協力しあつて、その文化的、経済的生活の擁護向上を図つている点にあり、従つて、組合員を組合の目的にそう活動家に成長させるための教育、学習という活動は、川崎生協の重要な活動であり、このような自律的活動を通じて、組合員、従業員が川崎生協の目的から逸脱することを阻止して来たのである。

独立採算制実施後に行なわれたこの自律的活動の若干を挙げれば、施設運営委員会の施設指導、映画会の開催、神奈川県主催の経済講習会の開催、川崎生協の指導者講習会、組合員子弟の学習会、ニユースの発行、模範的な生活協同組合の見学と懇談会、主食、電気料値上反対署名活動、施設従業員に対する経理講習会、講演会等が行なわれている。

(三) 自律的復元活動

組織体が活動を続けて行く場合には、どんなに組織体の目的に合致するよう構成員を教育訓練しても、必ずある時期に有害分子、腐敗分子が出現して来ることは避けられない。同様のことは、人間の身体についてもいい得るところである。人体が損傷を受け、あるいは外部から病菌が侵入した場合、生命力ある人体ほど内部からこれを排除し、復元させようという作用が強く働らくものであるが、組織体においても、このことは異ならない。従つて、ある組織体が、組織体としての団体性、団結力を有しているかどうかは、ある時期に組織の目的、方針から逸脱する有害分子、腐敗分子がどの程度出現したかということによつて計るべきではなく、その組織体に、それを克服して前進するための内部的、自律的復元機能が、どの程度存在して活動しているかによるべきである。

これを川崎生協について見れば、多数の零細商人が組合に加入し、川崎生協の目的、理想を理解せず、この統制からともすれば逸脱する人達が出現して来たことは事実であるが、これに対して、川崎生協は、前述のような自律的活動により、辛抱強い教育、学習運動を続け、また、これによつても矯正できないもののために、施設の監査、点検、説得、川崎生協全体としての問題解決のための討議などを行ない、それによつてもなお矯正できないものに対しては、施設の閉鎖をするなど、組合全体の団結維持のため、多くの努力を重ねて来た。

川崎生協のこのような自律的復元活動として、記録に残されているものだけをみても、まず、施設の点検、監査について次のようなものがある。昭和二六年六月四日から一六日まで、川崎生協の全施設について、神奈川県生協係りの指導、監査が実施され、同年一〇月一七日県生協運営委員会の視察があり、昭和二七年四月一一日には、川崎市生協運営委員会の視察が行なわれ、同年一〇月二六日理事による施設視察、昭和二八年四月一九日から四月いつぱい全施設監査、同年五月三日から一〇日まで本部監査が行なわれている外、総代会毎に監査報告が行なわれている。このように、川崎生協は、施設の点険監査活動を原則的に実施しており、その中には、厚生省、県、市とか日本消費生活協同組合連合会、神奈川県消費生活協同組合連合会などによる他律的な監査も含まれていたのであり、このような官庁は、問題の昭和二五ないし二七年当時の川崎生協について、その生活協同組合としての団体性、統制力を認め、また、川崎生協の総代会には、必ず県と市から代表が来賓として出席し、挨拶していたのである。

このような監査、点検によつて発見された不良施設に対しては、施設(経営)指導委員会が説得活動を担当したが、同時に、有害分子の組合加入を阻止するため、施設の加入申請に対して、実地調査その他の審査が行なわれた。

川崎生協全体としての説得、教育によつても矯正されず、施設を閉鎖したものは、昭和二六年前半期九カ所、同年後半期五カ所、昭和二七年期三カ所を数える。

しかも、このような、不良施設、有害、腐敗分子の存在は、川崎生協の公式文書中においてこれを認めているのであり、この一事をもつてしても、川崎生協のこれら逸脱分子克服の自信を示すと同時に、川崎生協が、被告のいうような税金脱れのための仮装団体ではなかつたことを示すものであり、もしも川崎生協が税金脱れのための組織であれば、このような不利な事実を記録に留めておくはずがないといわねばならない。

(四) 支部活動

川崎生協は、その創立そのものが地域、職域を前提としていたため、「支部」という言葉は当初から使用され、いわば、支部から本部という形で発展したともいえるのである。

支部は、支部総会で予算を議決し、これに従つて活動し、決算も支部総会が議決した。これらの予算、決算書においては、施設従業員の給与、利益金の処分等すべて明確に定められ、被告が主張するように、施設主任の自由になる余地はなかつた。支部役員は、労働組合の活動家が選出されることが多く、その施設に対する監督はきびしかつた。

原告見目の所属していた鹿島田第二支部は、模範的な支部であつたが、同支部では、昭和二七年七月五日から昭和二八年六月二七日までの間に、定期執行委員会を一二回、臨時執行委員会を二回開いており、また組合員として三〇世帯を新たに加入させ、その他支部ニユースの発行、経営研究会、生産工場見学会、組合会館の開設、割戻しの実施、与論調査、施設従業員の研修懇談会等を実行している。

2  独立採算制の経営面

川崎生協が採用した独立採算制というのは、理事会の決定により、理事会から委任された権限内で、各施設ごとに日常の事業の経営を行なうもので、これは組合本部の負債が増大し、仕入が出来なくなつたため、臨時に資金の借入商品の仕入等に施設主任の個人的な信用、能力を利用しようとしたものである。そのため、ある程度まで経営の自主性と収支のバランスについての独立採算が各施設に認められたが、それはあくまで、毎日本部が施設の収入を吸い上げて、また降すというのではなく、一応施設毎に収支を管理し、バランスをとるようにするという点に重点があり、結局資金の借入、商品の仕入についても、本部理事会あるいは支部役員会の指示と承認という枠内での自由であり、最終的な対外的責任は組合にあるのである。

従つて、独立採算制実施以後の組合の経営は、各施設主任が個人で事業を営み、その利益を享受するというようなものではなく、あくまで組合としての法人性を確保していたのであるが、以下この点を分説することとする。

(一) 各施設の商品の仕入及び販売について。

独立採算制実施以後、商品の仕入は、本部に設けられた共同仕入委員会(本部役員、職員、施設主任等で構成)と支部が、仕入面を強化し安く良い品物を仕入れる目的で、これを担当することとなつた。各施設は、本部の共同仕入委員会、または本部の指定する、いわゆる指定問屋から商品を仕入れ、これを共同仕入委員会または支部で定めた価格により組合員に販売した。もつとも商品のなかには、施設主任が自主的に仕入れるものもあつたが、それは豆腐、油揚げ、納豆などの日常消耗品類にすぎず、味噌、醤油、練炭、木炭、食料油、衣料品、青果、魚類等は、重点商品として共同仕入委員会等を通じて仕入れた。

被告は、共同仕入にかかる商品は、施設の全取扱金額の五パーセント位にすぎないと主張するが、被告のこの計算は、川崎生協の共同購入センターを純粋に通過したものだけで、これに準ずる指定問屋から直接施設へ行つたものを含んでいないのである。しかも、重要なのは、施設の主任は本部の定めた権限の範囲内で仕入をしていたということであり、パーセンテージの多少は、直接施設が個人営業であるかどうかと結びつかないのである。

各施設の仕入、売上等については、本部から配布された「日報」に毎日記載して本部に報告し、これについて本部が監査、点検、指導していたことは、前述のとおりである。

なお、被告は川崎生協において、本件課税問題発生まで統一経営に復帰するという考えがなかつたと主張するが、その誤りであることは、川崎生協の会議録を見れば明らかであつて、統一仕入を統一経営のための第一歩として、できるだけ早期に統一経営に復帰することが討議されていたのである。

(二) 施設の剰余金について。

独立採算制実施以後は、本部会計と施設会計(支部があるところは支部会計)が一応区別されていたが、各施設において生じた剰余金及び損失は、いずれも組合に帰属するものである。ただ独立採算制の趣旨から、会計が別個になつているため、本部理事会が大体の収支予想をして算定した額により、毎月一回本部繰入金名簿で、各施設の収益を本部会計に繰り入れ、毎会計年度に組合全体の収益を集計し、その際、施設で赤字を出しているものには、施設の運営に差支えない程度のものを本部から補填し、施設の剰余金は全部本部において統一した上、総代会の決議で、そのうちどれだけを本部支出にあて、どれだけを各施設の繰越金として配分するかを決定したのであつて、施設の主任が剰余金を自由に処分するようなことはできなかつた。

被告は、本部会計と施設会計とが別個に経理されていることをもつて、川崎生協の団体性を問題とするようであるが、まがりなりにも独立採算制を採用しているのであるから、本部と施設の会計が別個であることは当然であろう。

また被告は、独立採算制実施以前の旧債務を施設が全く負担していないというが、独立採算制実施以後、旧債務の返済にあてられた本部会計の黒字が各施設の繰入金によつていることは明らかであり、旧債務処理の名目で直接施設から金が集められていないからといつて、旧債務について各施設が負担をしていないとはいえず、かえつて、独立採算制実施以後旧債務の整理が進んだということは、この制度を採用したことの成果というべきである。

さらに被告は、加入時、脱退時に清算をしていないと主張するが、清算は行なわれており、被告の主張は事実に反する。もし被告の主張するように、独立採算制の実施により原告らが個人事業者になつたのであれば、原告らは川崎生協から商品、什器備品等を買い取らねばならないこととなるが、そのような事実はなかつたのである。

(三) 施設の借入金について。

資金の借入は、当時川崎生協名義では、取引停止になつていて不可能であつたため、施設主任の名義を用いたが、それも支部または施設主任の肩書きをつけており、しかも借入金の限度額、取引銀行等は総代会の決定事項で、その借入手続も厳密で、本部役員が連帯保証人となつていたのであつて、最終的には川崎生協の債務となり、いわば名義だけ施設主任のものを借りていたにすぎない。

(四) 施設の主任の給料について。

施設の主任、その他施設従業員の給与は、従来通り一定の基準に基づいて組合本部が決定し、たゞ現金の支給は、施設の売上収入より、経費等とともに、各施設において支出したが、その際自家消費分は、適正な価格に評価して、給与より差引計算した。

なお、各施設の経費は、本部から一定の基準で指示された額の範囲内で支出し、これを超過して支出する特別の必要がある場合には、本部に届け出て、その承認を受けなければならなかつた。

(五) 施設の建物設備等の組合への賃貸について。

各施設の主任は、ほとんど全部自己の個人所有の家屋を組合に賃貸して、施設店舗に供していたが、その場合は、独立採算制実施前と同様、従前の賃貸借契約に基き客観的に妥当な賃貸料が定められ、家屋の修理等を行なつた際には、個人所有の家屋であるため、その費用は個人負担とし、賃料を値上げすることにした。組合所有の家屋が施設店舗の使用に供せられている場合には、独立採算制実施以後も施設主任にこれを譲渡ないし賃貸したことはなく、修繕費等は組合経費として支出した。

(六) その他

従来事業を営むについて必要な許可、認可、免許等の名義は組合長名義になつていたが、独立採算制の実施により、それを施設主任の個人名義にしたことはなく、かえつて新たに組合に加入したものについて、個人名義を組合長名義に切り替えた。

また、外部への宣伝などは、一切組合名義で行ない、施設主任の個人事業と誤認させるようなことはしなかつた。

なお、ある施設で余裕のある資金、商品、労働力、運搬具等は、不足している他の施設のために、本部の統率のもとに利用した。

四、川崎生協の団体性

以上詳述したとおり、川崎生協は、独立採算制実施後も、その組織面、経営面のいずれにおいても団体性を保持していたのであり、被告の主張するように法人を偽装していたものではなく、まして、これを被告のように税金脱れのための偽装団体とするのは、川崎生協の沿革、目的を無視し、民主的団体としての特質をことさら曲解するものである。

もつとも、独立採算制実施以後新たに加入した多数の個人商店のなかには、川崎生協の目的をよく理解せず、商人性が抜け切らないため、被告の主張するような個人商店とまぎらわしい実態の者も存したことは事実である。しかし、前述のとおりこのような有害分子、腐敗分子が一部にあつたということだけで、川崎生協全体の団体性が失なわれるものではなく、とりわけ、後に述べるように川崎生協の一従業員として誠実に職務に尽して来た原告らまで、事業所得者と判断することは許されない。

なお、被告は、川崎税務署長の勧奨により、大部分の施設主任が事業所得者として確定申告書を提出しているから、これらの者は、個人で事業を営んでいたことを認めたものである旨主張する。被告主張のような確定申告書が提出されていることは事実であるが、それは、昭和三〇年一〇月頃川崎税務署長が組合長その他の本部役員を招き、なんとか「面子」をたてて個人課税をしてくれれば、課税額の面で実質的に損害のかからないよう協力するからとの申入れを行ない、同年一二月頃さらに執拗に同趣旨の申入れがあつたため、川崎生協本部では、名を捨てて実をとるを得策と判断して、施設主任になんの相談もしないで、無断で施設主任名義で、個人の事業所得について確定申告書を提出したものであつて、これら施設主任が、自ら事業所得者と認めて、確定申告したものではない。

五、川崎生協における原告らの立場

1、被告の主張一の4の(一)の事実のうち、原告らがもと被告主張の会社に勤務しており、そこを退職して各施設の主任となつたことは認める。

被告も認めるように、原告らは、もと会社等に勤務し、商業に従事していたものではなく、川崎生協設立当初より、組合の目的に賛同し、勤務先を退職して、川崎生協の従業員となつたもので、爾来組合の目的実現のため、組合の方針、議決に従い、川崎生協の一機関として忠実に自己の職責を果して来ており、原告らの施設に関して、支部組織も整備され、原告らは、川崎生協の模範的な施設と目されていたのである。独立採算制実施以後、川崎生協に加入した既成商人のなかには、前に述べたとおり商人性の抜け切らないものがあり、これらについて、総代会その他の会議で問題とされたことはあるが、原告らについて、組合員その他から問題とされたことはなく、従つて、このような有害分子、腐敗分子の存在をもつて、組合加入の動機、態様を異にし、誠実に組合の一機関としての職責を果して来た原告らをこれと同一視して、事業所得者と判断することは、明らかに誤りである。

仮りに、これら有害、腐敗分子の存在により、川崎生協が全体としての団体性に問題があるとしても、常に川崎生協の従業員として行動し、しかも独立採算制の採用の決議に直接関係していない原告らは、川崎生協全体の団体性の有無にかかわらず、実質課税の原則よりして、給与所得者と認むべきである。

2、被告は、原告らが係争の昭和二五ないし二七年分所得税について事業所得者として確定申告をし、さらに昭和二八年以降についても同様の確定申告書を提出していると主張する。

昭和二五ないし二七年分の確定申告は、先に述べたとおり、組合本部が勝手に申告書を提出したもので、原告らの意思とは無関係のものであつて、本来無効のものであり、また仮りに無効でないとしても、これによつて、原告らが事業所得者と自認していたものではない。

また、昭和二八年以降、原告らが事業所得の申告をしていることは事実であるが、これら申告は、原告岩淵及び見目は昭和三三年に、原告大川、北沢、小島は昭和三二年に一括申告したもので、川崎税務署長が、個人の事業所得として申告すれば青色申告なみに取り扱うが、そうでなければ、無申告加算税を賦課すると述べ、さらに再三の交渉により、税額の点で大巾に譲歩し、原告らに一応納得の出来る線まで所得額の認定を折れ合つてきたので、再び争つても、係争年分同様多額の推計課税を押しつけられると考え、実をとることにしたのであつて、原告らがこれによつて真実個人事業所得と自認したものではない。

六、原告らの所得金額について。

仮りに、原告らを事業所得者と認定した被告の判断が正当であるとしても、被告は、原告らの所得額を全国平均の差益率、所得標準率を適用し、また形式的に経費を控除して認定しているのであるが、原告らは川崎生協の理想、原則を忠実に守り、仕入原価に対し最高一〇パーセント以下の差益率で商品を販売していたのであるから、これらの事実を無視し、漫然と全国平均の差益率等によつて、原告らの所得金額を認定したのは違法である。

第五、証拠関係<省略>

理由

第一序説(本訴の争点と争点へのアプローチ)

一、原告らが、いずれも川崎生活協同組合(以下川崎生協という。)の従業員として、川崎生協の各施設(事業所)において事業活動に従事していた昭和二五ないし二七年分の原告らの所得税について(ただし、原告小島については、昭和二五、二六年分)、川崎税務署長が、原告らはそれぞれ従事する施設の事業活動より生ずる収益を実質上享受していたものと認め、各施設の事業収益は原告らの事業所得を構成するものと判断して、原告ら主張の日に、その主張のような内容の更正処分をし、被告が、原告らの各審査の請求に対し、原告ら主張のとおり、一部について、原処分の認定した所得金額の若干を取り消した外は、大綱において原処分を維持する決定をしたことは、当事者間に争いがなく、本訴の主な争点は、形式的には、原告らが川崎生協の従業員として従事した事業活動の成果が、実質的に原告らに帰属し、原告らは事業所得を有するものであると認定、判断した被告の決定が、適法であるかどうかということである。

二  資産又は事業から生ずる収益が、実質的には、法律上の名義人に帰属せず、他の者に帰属すると認められる場合に、その収益に係る租税を誰に負担さすべきかについて、現行所得税法第三条の二(なお法人税法第七条の三も同趣旨の規定である。)は、収益の帰属を経済的、実質的に観察して、事実上これを享受する者に対して、所得税を賦課することと定め、所得税法がいわゆる実質課税の原則をとることを明らかにしているが、同条は、昭和二八年法律第一七三号によつて新設され、昭和二八年分所得税より適用されるものであるから(同法附則第三項)、本訴で問題の昭和二五ないし二七年分所得税については、直接同条の適用を受けるものではなく、収益の実質上の享受者が法律上の帰属者と異なる場合の所得税の賦課の関係は、当時における租税法規の解釈に委ねられれているものといわねばならない。所得税は、本来国民各人が、その経済的能力に応じて、これを負担すべき性質のもので、経済的成果の実質的な享受者が納税義務を負うことが、租税負担の公平の原則にも添うところよりすれば、法律に特別の規定の存しない限り、所得税法は、経済的実質に従い、その収益の享受者が所得税を負担すべきことを予定しているものと解され、前記第三条の二の新設前においても、例えば、信託財産について生ずる所得について、その実質的な享受者である受益者が信託財産を有するものとして、所得税を賦課する旨が定められ(第四条)、所得税法が、原則としていわゆる実質課税の原則の上に立つものであることを明らかにしているのであり、従つて、第三条の二の新設によつて、初めて実質上の収益の享受者に対して所得税を賦課する途が開かれたものと解すべきものではなく、同条は、所得税法の趣旨とするところを、宣言、確認したものというべきである。

しかしながら、社会、経済的生活を営むに当たつて、一定の法律名義を採用するについては、それ相応の経済的、実質的動機に基づくことが通常であつて、法律名義と実質とは通常一致すべきものであるという前提に立つて、社会、経済生活が営まれ、社会秩序が形成されトいる以上、法律名義の採用が、もつぱら租税の回避を目的とするものであると認められる特段の事情がある場合は格別、単に租税の賦課、徴収の便宜ないし必要性の観点からのみ、たやすく法律上の名義人に対する収益の帰属を否定することは、いたずらに、社会、経済生活を乱し、法秩序の安定を損うものとして許されないことといわねばならず、所得税法第三条の二と法人の営業所における同条の適用に関する推定規定である第四六条の三(現行第四六条)の立法に当たり、国会において「第三条の二、第四六条の三の施行は中小企業法人の組織と発達とに重大なる影響を及ぼすものであるから政府はその実施に当たり十分慎重を期せられたい。

よつて、法第四六条の三の適用に当たつては、当該地方に於ける所轄官公庁、当該法人の所属する団体の代表者並びに学識経験者よりなる諮問機関の意見を徴したる上、当該地方国税局長がこれを決定することとし、以つて中小企業法人の発達を阻害するが如きことのないよう厳重留意致されたい」なる附帯決議が行なわれているのも、右趣旨に出たものと解される。この見地よりすれば、法律上法人の営業所において事業活動を営む者が、実質上当該事業より生ずる収益を享受しているかどうかを判断するに当たつては、何人がその事業を主宰し、事業に伴なう財産関係を支配し、事業遂行に伴なう損益を負担しているかということと共に、その法人の性質、目的、組織、機関活動、各営業所責任者の法人加入の動機及び法人に対する意識、組織活動への参加の程度等の一切の事情を、しかも、継続的に検討することが必要であり、法人の営業所の責任者の一部に、一時期、その事業活動より生ずる収益を実質上享受しているものがあるとの一事をもつて、直ちにその法人の団体性を否定し、その他の営業所責任者もまた、すべて個人として事業収益を享受しているものと速断することは許されないところといわねばならない。とりわけ、本訴で問題の川崎生協の場合は、後に見るとおり、各施設主任の間においても、加入の時期、態様、動機等に応じて、その意識、事業活動にかなりの相違が認められるのであるから、原告ら以外の施設主任の事業活動の実態がどのようなものであつたかということは、原告らの場合を判断する一応の資料とはなり得るとしても、他の施設主任のうちに実質上その事業収益を享受しているものがあつたということから、直ちに原告らをも、これと一様に律し得べきものではなく、原告らが、川崎生協の施設主任の立場にありながら、なおその営業活動について事業所得を有するものというためには、原告らそれぞれについて、個別的、具体的に原告らがその収益を独占享受していたことが、前述のような広はんな諸観点についての具体的事実の裏付けを基礎として広い視野の中に論証されなければならない。

以下、このような見解の下に、本訴の事実関係を検討し、これに対する当裁判所の判断を述べることとする。

三  原告は、被告が乙号証として提出した税務官吏によるいわゆる聴取書の証拠能力を問題とするので、これを検討するに、原告が主張するとおり、税務当局が納税者たる国民に対し事実上強大な権力を持ち、そのため一般国民が税務官吏の質問調査に対し、税務当局に迎合するような応答をする危険性、可能性は事実上否定し得ないところであり、しかも、ことがらの性質上聴取書にどのような事項についての応答を記載するかは、これを作成する税務官吏の判断に委ねられるものであるから、仮りに、記載された応答の内容が、その記載の限度においては正確であつても、全体として真意を誤つて伝えることも考えられ、とりわけ、訴訟提起後に作成された聴取書を書証として提出することを無制限に許容することは、訴訟における直接主義の要請と矛盾し、反対尋問権の保障を損う虞れもあつて、好ましいこととはいえない。しかし、課税要件の充足の有無については、税務当局として、納税者その他の関係人を調査する方法によつて初めてその事実関係を明らかにし得るもので、そのための明文の規定も置かれており(所得税法第六三条)、原告としては、聴取書の応答者を証人又は本人として尋問を求め、聴取書の内容について、事後的にではあつても反対尋問をすることができることなどを考えあわせれば、刑事訴訟法におけるような明文の規定の存しない以上、その証明力の問題は格別、直ちに証拠能力を否定することはできないものと解すべきである。

四  以下の判断の便宜のため、成立に争いのある書証について、ここで一括して、その成立の真否を判断するに、甲第三号証の一ないし六、同第四ないし第一二号証、同第一九号証の一ないし六、同第二一号証は、いずれも証人丑久保正三郎の証言により、同第一七号証の一ないし四は、証人大西信治の証言により、同第一八号証の一ないし四、同第二〇号証、同第二三号証は、いずれも証人阿部軍太郎の証言により、同第二二号証、同第二四号証の三、同第二五号証の一、二、同第二七号証、同第二八号証の一、二は、いずれも原告見目本人尋問の結果により、同第二九号証は、原告岩淵本人尋問の結果により、同第三〇号証の一ないし一〇、同第三一号証の一ないし五、同第三二ないし第三三号証は、いずれも原告北沢本人尋問の結果により、それぞれ真正に成立したものと認められ、乙第一ないし第六号証は、証人松富善行の証言により、同第一八号証は、証人津守金次郎の証言により、同第二〇号証は、証人阿部軍太郎の証言により、それぞれ真正に成立したものと認められ、同第一〇ないし第一三号証、同第一九号証の一、二、同第二五号証は、公務員作成部分は、職務上作成したものと認められるから、その真正に成立したことが推認され、それによつて、私人の作成部分もまた、真正に成立したものと認められる。

その余の甲、乙各号証は、いずれも成立に争いがないから、提出された書証は、すべて事実認定の資料に供し得ることとなる。

第二当裁判所の認定した事実

一  川崎生協の沿革

1  川崎生協の設立

(一) 当事者間に争いのない事実に、甲第一号証の一、同第二号証及び証人森田三之丞の証言によれば、川崎生協設立の経過とその組織は、次のとおり認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

川崎生協は、終戦直後の生活物資等の欠乏に対処するため、食料品や衣料など消費者が共同して購入し、分けあうための組織として、昭和二〇年一〇月頃より、川崎市内所在の工場の労働組合及び町会を中心に、戦前の消費組合運動の経験を持つ山本秋等の指導の下に、その設立の準備が進められ、昭和二一年七月五日産業組合法による購買利用川崎生活協同組合として発足し、昭和二三年一〇月消費生活協同組合法の制定に伴ない、その組織を変更し、川崎生活協同組合となつたものであるが、その組織は、定款(甲第二号証)によれば、次のとおりである。

川崎市内に住居又は職場を持つ者は、一口金一〇〇円以上(もつとも、分割納付が認められていた関係もあつて、現実には、金一〇円ないし金三〇円程度の出資が多かつた。)を出資して、組合に加入し、組合員は、数名ごとに班を構成して日常の基本的な協同活動を行なうほか、組合員が三〇〇名以上一定地域又は職域に結合しているときは、支部を組織することができた。そして、組合員及び支部の活動を統一、指導するため、本部が置かれ、(イ)組織内部の指導、連絡、統制、(ロ)各支部の事業の協同的執行、(ハ)組合財産の管理、運営、(ニ)対外的折衝をその任務とした。組合の機関としては、組合員が支部その他の選挙区単位で選出した総代によつて構成される総代会が、毎事業年度一回以上開催され、(イ)定款の変更、(ロ)事業計画の決定、変更、(ハ)収支予算、(ニ)事業報告、会計決算、剰余金及び損失の処理その他組合運営の基本的事項を決議し、理事及び監事の役員を選挙し、理事は、組合の事務を総理、代表する組合長を互選するとともに、理事会を構成して、組合の運動及び事業についての企画立案をし、監事は毎事業年度二回組合の財産及び業務の執行状況を監査することとなつていた。組合事務に従事する職員は、組合長が任免した。

(二) 当事者間に争いのない事実に証人森田三之亟、原告大川、同見目(第一、二回)各本人尋問の結果によれば、川崎生協設立当初の事業活動は、次のとおり認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

川崎生協は当初本部において生活必需物資を一括購入して、地域又は職域による組織を通して、これを組合員に配布し、さらに配給登録制度のとられた物資については、本部が登録機関となつて統制物資を扱うようになり、当初は、組合員の自宅等を利用して、本部職員等が出向いて地域における配給業務に従事していたこともあつたが、本部が川崎全市の鮮魚の荷受機関となるなどして、本部事務が繁雑になり、他方施設における配給業務も多忙となつたためか、施設提供者に対して、勤め先をやめて、施設の主任として組合事業に専念するよう説得が行なわれ、そのため、これに従う者も出るようになつた。

施設の主任は、原則として、本部より分荷された商品だけを配給、販売し、独自に商品を仕入れることはなく、その売上代金は全額本部に納入し、また日計表を作成して本部の統制に服し、毎月定額の給与を本部より現実に受領していた。

2、独立採算制の採用

当事者間に争いのない事実に、甲第三号証の一、甲第二六号証、証人森田三之亟、同丑久保正三郎、同大西信治の各証言及び原告見目本人尋問の結果(第一、二回)を綜合すると、次のような事実が認められ、この認定に反する乙第一号証、同第七号証の記載及び証人松冨善行の証言は、いずれも措信し難く、他にこの認定を覆すに足りる証拠はない。

川崎生協では、昭和二四年三月の第五回通常総代会(甲第二六号証)において、従来下部組織の未整備、施設の弱体等の原因によつて、本部中心の活動を行なつていたことについては、それが初期における経営方法として正しいあり方であつたとして、これを評価しながらも、次第に支部組織もでき、物資も出廻つて来て、支部、施設を中心とする活動が可能な状勢になつて来たことからして 業務活動の重心を組合員に直結した支部、施設に移し、本部は、指導、連絡、渉外等の任務に主力を尽すべきことの活動方針が採用された。他方、昭和二三年後半頃から自由物資が次第に増加し、従来の配給業務によつては、当時本部だけで約八〇人の職員を擁していた川崎生協の経理をまかなうことが困難となつたうえに、施設の主任の中にも、配給代金の本部納入を怠る者が現われ、さらに、本部職員の仕入れの不手際、不適切な在庫商品の係管などの原因が重なりあつて、昭和二四年三月当時買掛金、借入金がそれぞれ約金六〇〇万円もあり、決算書において金三二〇万円以上の赤字を計上することとなり、手形の不渡りまで出す破目となつて、川崎生協として、問屋、銀行等と取引きすることができなくなつた。そのため、川崎生協を解散すべきかどうかが理事会等で真剣に討議されたが、貧しい組合員の出資金によつて成立した川崎生協を安易に解散することは無責任であるとの結論に達し、川崎生協の建て直しをはかることとなり、昭和二四年後半期から、次のようないわゆる独立採算制をとることとした。すなわち、当時川崎生協の名前では、不渡り手形を出して、取引が停止されていたので、各施設の主任の個人的信用を利用して、資金を借り入れ、商品を仕入れで、事業活動を継続し、本部は、配給物資の取扱いの外は、未払債務の整理に専念する。そのため、組合経理上、本部会計と施設会計とを区別し、また、各施設における事業活動においては、日々の取引を日報によつて本部に報告するほかは、事業活動より生じた収益より、本部理事会が予め定めた本部繰入金を毎月定額本部に納入するものを除いては、各施設において、支部の管理の下に留保し、本部総代会において、各期毎に一括してその処分を決議し、施設従業員の給与は、本部より現金では支払わず、各施設毎に、本部理事会の指示に従い施設の売上金の中より、これを受領するとの建前がとられた。

独立採算制採用当時の施設数は約一五カ所であつたが、川崎生協において、資金の獲得と施設充実のために、個人商人に対して川崎生協の施設になるよう勧誘し、他方商人の側においても、当時税負担に悩まされていたという事情もあつて、独立採算制採用後多数の商人が組合に参加し、そのため施設数は著るしく増加して、一一〇カ所を超えることもあつた。

その後、税務当局の調査その他の原因により、施設数は激減し、川崎生協が独立採算制を廃し、施設の本部直営制に切り替えた昭和三一年四月当時、施設数は約一五カ所であつた。

二、独立採算制下の川崎生協の事業活動 証人松冨善行の証言及び同証言により同証人が作成したと認められる乙第七号証には、川崎生協は、独立採算制を実施した以後、租税回避のための仮装法人と化し、各施設の事業経営は、各施設とも異ならず、一様に個人として事業活動を行ない、事業収益を享受していた趣旨の供述ないし記載があるが、前認定のとおり、川崎生協は、もともと、商人等によつて、もつぱら租税回避を目的として設立された団体とは異なり、明確な目的をもつた消費者の団体として発足したものであり、独立採算制の採用も、本来、組合の財政危機の乗り切りという、租税の回避とは無関係な経済上の動機から出たもので、後に詳細に認定するように、独立採算制が採用されていた時期においても、組合固有の組織的事業活動と見うるべきものが存在していたにかかわらず、右供述ないし乙号証の記載は、独立採算制採用の経済的動機や、独立採算制採用後における法人固有の事業活動の存在をことさらに無視し、右時期における川崎生協が、あたかも、当初から、もつぱら租税の回避を目的として設立された仮装法人と同様の存在と化したものと断定するものであつて、独立採算制下の川崎生協の事業活動の実態を認識する証拠としては、右供述ないし乙号証の記載は採用し難いものである。そればかりでなく、前認定のとおり、独立採算制が、一面組合本部の統制を緩めつつ、他面支部による統制の強化を期待したものとも見られるのであるから、各施設と支部ないし組合員との結びつきの強弱等の観点も、施設の事業活動の性質を判断するうえに無視することはできず、後にみるとおり、原告らとその他の施設との間には、この点での相違が認められるのであるから、このような事実を度外視して、各施設の事業活動を抽象的に述べるものに過ぎないと認められる前記供述及び記載によつて、直ちに原告らの事業活動の実態を判断する資料とすることはできないものといわねばならない。もつとも、他の施設の事業活動の実態いかんは、最初に述べたとおり、原告らの場合を判断する一資料となり得るものであり、また同時に、原告らの場合の特質を判断する資料ともなり得るわけであるから、これを検討することは無意味とはいえず、さらに、当時の組合本部の活動状況を明らかにすることも、原告らの事業活動が、被告の主張するように、原告ら各自の個人的なものといえるかどうかの判断に当たつて重要であることも、最初に述べたとおりである。

そこで、原告らそれぞれの事業活動の実態は、後にあらためて詳細に検討することとして、ここでは、原告ら以外の施設について、本訴において現われた証拠によつて、個別的、具体的にその事業活動の実態を明らかにし、それとともに、川崎生協本部が独立採算制実施当時(本訴係争年度である昭和二五ないし二七年を中心に)どのような活動をしていたかを見ることとする。

1  本訴に現われた原告ら以外の施設主任の事業活動

(一) 大久保藤作の場合

乙第一号証によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

大久保藤作は、一一才の頃から魚類商をしていたが、昭和一八年八月これをやめて工場に勤務し、終戦による工場解散のため失業した。そこで、昭和二一年初め頃川崎生協(乙第一号証には、川崎工場隣組連合会とあるが、その記載の趣旨よりして、有限責任購買利用川崎生活協同組合の誤りと思われる。このような事実を誤解していることよりすれば、同人の当時の職務は極めて軽微なものであつたと認められ、同時に右事実は、同人の生活協同組合に関する認識の程度を示すものと思われる。)の役員に頼んで、川崎生協の配給する魚類の運搬の仕事に採用され、昭和二三年暮頃住居を新築した際、これを川崎生協の施設に提供し、その主任として魚類の販売を行なつて来た。川崎生協が独立採算制を実施するようになつてから後は、本部に対し、本部が定めた繰入金(当初一カ月金一、〇〇〇円で、二年くらい後に金三、〇〇〇円となり、昭和三〇年三月からは、本部は金五、三〇〇円と定めたが、現実には一カ月金四、五〇〇円の割合で乙第一号証の作成された同年八月まで納入しているにすぎない。)を納入し、売上及び仕入を報告したが、仕入は、本部からは川崎生協として仕入れるようにとの指示があつたのに、これに従わず、生活費は、本部の定めた給与を手持現金より控除して、これに当てることをしないで、必要の都度利益金より使つていた。

なお、乙第一号証には、昭和二四年頃川崎生協の総会で、これから各施設は個人として商売するようにとの説明があつた旨の記載があるが、前認定の独立採算制についての説明を誤解したか、あるいは、川崎生協に属しながら、その統制によく服していない自己の立場を弁解する意図に出た供述とも考えられ、直ちには措信できない。

(二) 船橋資治の場合

乙第二号証によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

船橋資治は、昭和二一年頃より川崎生協の組合員であつたが、同人の個人経営にかかる浴場につき、昭和二四年分所得額を税務官署より高額に認定されたため、税負担の軽減をはかる意図で、浴場を川崎生協の施設として提供することとし、浴場建物及び付属の什器備品について、組合との間に賃貸借契約を結び、公衆浴場の営業許可名義を川崎生協に変更する手続をとつた後、昭和二五年五月二七日より、川崎生協の施設となつた。その際本部の求めに応じて、川崎生協に五五人の組合員を新たに加入させたが、それらの者の出資額の半額くらいを同人において立て替えた。利用者の大部分は組合員で、組合員に対しては、特に料金を低額にした。毎日の収入及び経費は、その日に記帳して、一週間又は一〇日おきに来る本部事務員を通じて、本部に報告したが、燃料等の仕入は個人名義で行ない、建物の保険料及び浴場内のタイル張りの費用は個人で負担した。賃貸料及び給料は、組合から現金で支給されることはなく、生活費には収入金をあて、組合本部に繰入金一カ月金二、〇〇〇円と勤労所得税額一カ月金七七四円を納付していた。組合の地区協議会をその施設で二度開催したが、議題は、施設の改善、サービス等であつた。その後組合の方針に納得できず、本部の経理が改善されないため組合を脱退したがその際本部との間でとくに清算しなかつた。脱退後、同人が組合加入を勧誘した五五人に対しては、同人の負担で出資額を返還した。

同人が組合を脱退した時期について、乙第二号証には昭和二七年半ば頃と記載されているが、甲第三号証の三及び五、同第一六号証によれば、脱退は昭和二六年と認められるから、この点の乙第二号証の記載は措信できない。また、乙第二号証には、組合に施設提供の際、本部役員が施設提供後は本部に組合費を納入するだけでよいといつた旨の記載があるが、その趣旨が本部繰入金の外は、同人において利益を自由に処分することを本部役員が認めていたということであるならば、後に述べるとおり、川崎生協の総代会等で施設の商人性の克服が論じられていたこと及び同人が組合施設でありながら、その規律に従わなかつたことを弁解するためとも考えられることなどにより、措信できない。さらに、乙第二号証には昭和二六年六月浴場を組合施設のまま第三者に賃貸した旨の記載があるが、前認定のとおり、同人は昭和二六年半ば頃組合を脱退しているのであるから、当時なお組合施設であつたかどうか疑わしいし、仮りに、なお組合施設であつたとしても、脱退直前のことで、すでに脱退を決意していたものというべきであるから、そのことを右脱退決意前における同人の事業活動の実態を認識する上において、ことさらに重視することは相当でない。(なお、乙第二号証には同人は、施設提供後本部役員となつた旨の記載があるが、その担当事務に関する記載は極めて不明瞭で、しかも、同人が本部役員たる理事、監事でないことは、甲第三号証の一ないし四によつて明らかである。)

(三) 坂本政一の場合

乙第三号証によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

坂本政一は、もと東洋通信株式会社の社員として、理髪をしていたが、かねてより店を出したいと思つていたところ、昭和二五年四月頃川崎生協の施設となれば、理髪業組合から開業を妨害されず、料金が安くても文句を言われないうえ、開業許可も組合の力で簡単にとれると聞き、川崎生協に加入し、組合長名義で開業許可を得た。施設は、同人が実父より資金を得て加入前に建築したものを、組合に賃貸した。加入の際、理事会が施設として使用するかどうかを判断する基準として、利用組合員の数が問題とされるので、五〇人の組合員を獲得したが、その出資金は全額同人が立て替えた。施設となつてからは、売上及び仕入等の支払いを日報によつて本部に報告したが、必ずしも正確な報告ではなかつた。本部には、本部繰入金(当初一カ月金一、八〇〇円、昭和二九年二月より金三、二〇〇円)、所得税、健康保険料、労働金庫掛金四〇〇円を納入したが、生活費は定められた給料によらず、売上より使つていた。本部より年二回帳簿の監査を受けたが、現金の監査はなく、地区協議会には、欠席すると非難されるため出席していたが、そこで、組合本部の方針や要望が伝えられた。昭和二九年一一月、組合に加入していると料金の安い割に経費の負担が重いため、組合を脱退したが、その際、組合では、同人の記帳していた現金出納帳に組合に属する資産を金二〇、八八六円とし、退職手当として金二〇、〇〇〇円を支払うことと清算関係を記帳したが、現金の授受は行なわれなかつた。

(四) 中里伊三郎の場合

乙第四号証によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

中里伊三郎は、実弟と青果販売をしていたが、川崎生協の施設主任の宮島から川崎生協について、(イ)川崎生協が拡張中であること、(ロ)組合施設となると月給とりになること、(ハ)月給は伝票により、売上中からとること、(ニ)税金面は本部が処理すること、(ホ)仕入、販売は自由にできるが、取引を伝票で報告すること、(ヘ)本部繰入金を納入することの説明を受け、出資金二〇口合計金二、〇〇〇円を実弟と半分づつ出資して組合員となり、組合の施設主任となつた。施設開設時の商品約金三、二〇〇円は、本部に書類を提出したゞけで、現金の授受はなく、店舗は組合に賃貸した。組合施設となつてからも、組合員、非組合員の区別なく、誰れにも販売し、組合から与えられた出金伝票、入金伝票に入出金を毎日記載して本部に報告し、なお毎月これらをまとめた月報を本部に提出した。売上金は、自分で保管し、本部には、給料額に応じた源泉徴収税、本部繰入金(脱退時金三、二〇〇円)、健康保険料を納入した。昭和二七年一〇月三一日本部繰入金の額のことから川崎生協を脱退したが、特に本部との間で清算は行なわれなかつた。

(五) 高橋武治の場合

乙第五号証によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

高橋武治は、代々染色業を営んでいたが、得意先が少なく、商売がおもわしくなかつたところから、川崎生協理事長のすすめもあつて、昭和二五年初め頃川崎生協に加入し、その施設となつた。その際二〇〇口合計金二〇、〇〇〇円を出資し、これに得意先名簿をつけて組合に提出し、店舖、設備の賃料を定めたが、手持原材料約金五、〇〇〇円については、とくに棚卸し、組合への売卸等の手続はとらなかつた。組合施設となつてからは、本部に繰入金(当初一カ月金一、五〇〇円、脱退時金二、五〇〇円)を納入し、売上、仕入等を報告したが、給料及び賃貸料は、定められた金額を帳簿に記載して、これを売上の中より受領した形をととのえたが、現実には、家計の必要に応じて売上より使つていたため、必ずしも帳簿とは一致しなかつた。得意先への請求書等には「川協御幸染色部」の名義を用い、また地区協議会で、市価より安く売るようにとの指示があり、加入中二、三回本部より記帳の監査を受けた。昭和二八年三月頃川崎生協の施設となつても得意先がふえず、営業を自己名義で行なうことに執着があり、実弟から共同で会社組織によつて営業しようとの話もあつたところから、組合を脱退したが、そのとき本部の要求により、係員立会いの下に原材料等の棚卸しなどをし、帳簿書類を提出したところ、施設に金五〇、〇〇〇円の利益があり、そのうち金四七、〇〇〇円は、同人その他施設従業員の退職金として支給するといわれ、差額金三、〇〇〇円を本部に納入して、清算を了した。

なお、乙第五号証には、加入の際川崎生協理事長より、組合加入は形式にすぎない旨の説明があつたとの趣旨の記載があるが、右部分は、船橋資治に関する乙第二号証について述べたと同一の理由によつて措信できない。

(六) 平石泓の場合

乙第六号証によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

平石泓は、昭和一二年東京芝浦電機株式会社に入社し昭和一三年より同社小向工場に勤務していたが、同工場従業員が川崎生協に加入し、東芝小向工場支部を組織していたところから、同支部事務局長に選出され、また、昭和二一年から昭和二五年まで川崎生協本部の監事、理事となつた。昭和二八年九月末小向工場支部が、独立して東芝小向工場生活協同組合が設立された際、同人は同社を退職し、従来川崎生協支部として行なつていた米穀の配給業務と薪炭の配給業務を行なうこととし、従前の機械設備や資材を譲り受け、同年一〇月一日川崎生協の施設となつた。組合施設となつた際、同人所有の建物については賃貸借契約が結ばれたが、機械設備についてはなんらの取り決めが行なわれず、右譲り受け代金は、施設の売上金より月賦で返済した。組合には本部繰入金五、〇〇〇円と源泉所得税額金一、〇七四円を毎月納入したが、仕入、売上、経費等を毎日日報により報告すべきものとされていたのに、昭和三〇年三月まで月一度月報として報告するに止まり、同年四月から、入出金伝票と領収書等の証拠書類を提出するように定められると、まつたく報告を怠るようになつた。仕入は、主食は統制で薪炭、雑貨類は、川崎生協本部の一括仕入の分荷とその他からの仕入があつたが、その支払いには、売上金を妻名義の当座預金にして、小切手で支払つた。生活費は、定められた給料額によらず、売上金より必要の都度支出した。また売上の一部を川崎生協の地区協議会を通じて神奈川県労働金庫に定期積金とした。

なお、乙第六号証は、全体として個人事業であることを強調した記載となつており、しかも証人大西信治の証言によれば、平石は川崎生協の施設主任である右大西より相当多額の融資を受けていると認められるのに、他の借入金について述べながら、これについては、一言も触れていないが、それは、平石が施設の売上金によつて機械資材を購入しており、従つてその所有権が川崎生協に帰属するものか同人に帰属するものかが、施設の営業の実態に影響されるものであるところから、ことさら個人事業と強調したのではないかとの疑問が残り、かかる疑問の存在する以上、乙第六号証が反対尋問にさらされることなく、税務官吏による聴取りとして作成されたものであることを考慮すれば、これによつて右認定以上の事実を認めることはできない。

(七) 土本和司の場合

乙第一九号証の一、二によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

土本和司は、茶の小売、行商を行なつていたが、川崎生協本部に行商に行つたところから、すすめられて昭和二五年六月川崎生協の施設となつた。その際、(イ)施設の経営については、同人の責任で自立採算制をとること、(ロ)施設の従業員は支部委員会の同意を得て川崎生協が任免すること、(ハ)川崎生協の利用施設規程、配給所規程を厳守し、川崎生協に不利益を与える行為をしないこと、(ニ)所属の支部委員会に出席して経営状態や経営方針を説明し、その意見を徴すべきこと、(ホ)毎月末決算書を作成し本部に提出すること、(ヘ)在任中経営上又は法律上生じた損害賠償の責任を負うことなどの内容の契約書を作成した。建物、什器、備品については賃貸借契約を結び、棚卸商品は本部係員が来て、同人の意見を徴した上、金一〇〇、〇〇〇円と評価し、これを組合が買い取る形にして、その代金は毎月の売上金から控除することとした。本部繰入金は、当初一カ月金一、〇〇〇円、一年位して金一、五〇〇円ないし金一、八〇〇円になり、さらに一年後に金二、五〇〇円となつた。毎日金銭出納帳、入出金、振替伝票を書いて、月末に元帳を整理して本部に持参した。昭和二七年頃労働金庫から約金五〇、〇〇〇円を借り入れたが、借入名義は個人名義で組合本部が連帯保証人となり、借入、返済の事務は本部で行なつた。その他本部から共済会資金を借り入れたが、東京相互銀行その他個人から個人名義で借り入れたものもある。昭和二五年四月頃本部に金一〇〇、〇〇〇円の融資を頼んだのを拒絶されたことなどから、脱退を考え、同年一二月一五日組合を脱退したが、特に清算は行なわれなかつた。

なお、乙第一九号証の二は、同号証の一の翌日作成されているが、その内容は同号証の一に比べて事業実態の個人性を強調しているが、これは、同号証の一が必ずしも個人性を明確にしていなかつたため、これを作成した税務官吏が、上司に指示されて翌日あらためて同号証の二を作成のためおもむいたことによるとも考えられ、かかる聴取書、質問応答書の証明力を評価する上の一資料たるべきものと思料される。

(八) 飯田長蔵の場合

乙第二五号証によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

飯田長蔵は、履物販売業を営んでいたが、租税滞納等もあつて廃業を考えていたところ、川崎生協施設主任の勧誘により、昭和二七年五月一日加入を申請し、同年一一月二八日組合施設となつた。組合本部には、繰入金一カ月金二、〇〇〇円を納入し、本部の定めにより、当初金銭出納簿を記帳し日報を提出していたが、昭和三〇年六月から本部決議により入出金、振替伝票を提出し、現金は自分で管理した。営業資金は自己調達をした。組合の会合に出席したことはなく、共同仕入に参加したこともなかつた。

(九) 大西信治の場合

甲第一七号証の一乃至四、同第二八号証の一、二及び証人大西信治の証言によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

大西信治は、昭和二二年三月頃川崎生協本部職員に採用され、昭和二三年秋頃施設主任となつた。同人の従事する施設がある南河原地区では、昭和二五年頃より同地区内の川崎生協の施設主任によつて構成される南河原地区連絡会議があり、本部の事業計画、収支予算等の説明を求め、意見を述べたり、共同購入品目の決定、分荷価格の決め方等を協議していた。当時同人の施設では、マツチ、こんにやく等は、同人の判断で仕入れをしていたが、味噌、醤油、鮮魚、薪炭等は、統制品または本部の共同仕入であつたため、統制価格ないし本部の指示する分荷価格で販売していた。しかし、昭和二七年初め頃南河原地区には一二の組合施設がありながら、組合員組織が十分でなく、組合員相互または組合員と施設との結びつきが弱かつたため、南河原支部を結成することとなり(甲第一七号証の一)、支部の目的、機関等を定めた支部規約(甲第一七号証の二)を作成して、支部活動を開始し、同年七月二〇日には、組合施設の管理について、(イ)施設経営は自立採算制をとり、本部の指導方針に基づき支部機関が管理すること、(ロ)従業員の任免、給与は本部決定に従うこと、(ハ)施設の帳簿及び経営内容を組合員に公開すること、(ニ)施設の業務は担当者の責任経営とし、剰余金の三分の一以上を組合員に利用高配当し、担当者に若干の慰労金を出すこと、(ホ)施設の取扱品の品質、斤量、分配価格の適正を管理し、市価の五分乃至一割安を目標とすること、(ヘ)施設主任が従業員として正しい考え方を持つよう教育、指導することその他が定められている(甲第一七号証の三)。また、同人の施設では、「御幸ニユース」(甲第二八号証の一、二)を出して、商品の値段を記載し、また施設の会計報告をのせて、組合員に配布した。大西は、その後昭和三二年頃川崎生協を脱退し、御幸生活協同組合を組織した。

2  川崎生協本部の事業活動

(一) 昭和二五年当時

甲第三号証の一、二によれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

昭和二五年五月二二日川崎市長代理商工課長ら来賓を迎えて開催された第七回通常総代会において、組合員の広範な要求に応えるためには、組合資金だけでは十分ではないから、商人を結集して、広い生活防衛組織として川崎生協を発展させて行く必要性が説かれ、組合員以外の者の施設利用の防止と施設担当者の教育が討議された。

川崎生協の施設は、昭和二五年四月より同年一一月までの間に二七施設増加し、一一月末現在で一〇二施設となつた。

これら施設に対しては、施設指導委員会が指導に当たり、(イ)施設規程、施設指導要綱の決定と実施、(ロ)地区別施設協議会の編成、(ハ)施設の業種別編成と担当理事の決定、(ニ)職域の対策、(ホ)経理の統一などに重点が置かれ、業種別部会の共同購入がはじめられて、燃料部会の木炭買付け、食品部会の醤油の共同購入、正月用品の予約共同購入などが行なわれたが、同時に、施設の商人的傾向が指摘され、その克服の必要が検討された。

組合本部の教育、文化活動としては、組合員の主婦に対し、輸出向ネツカチーフ加工の家庭内職の斡旋を行ない、七月の国際協同組合デーの記念大会、映画会の外、人形劇、幻灯会等が行なわれ、また六月には、神奈川県主催の経済講習会が川崎生協本部で三日間行なわれ、その他、地区の施設担当者を参加させて、川崎生協指導者講習会が開かれた。

昭和二五年四月より同年九月までの事業年度の決算書は、本部会計と施設会計とに分けて決算され、本部会計の剰余金五二、七四三円八〇銭は、前年度よりの繰越損失金勘定に補填し、施設(職域を含む、)会計の剰余金一、九〇三、四四八円八一銭は、各施設の会計の繰越とすることが、総代会で決議された。

(二) 昭和二六年当時

甲第三号証の三、四、同第一六号証によれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

川崎生協は、各期一回の通常総代会の外、昭和二六年四月より同年九月までの間に、(イ)理事会一一回、(ロ)常務理事会二回、(ハ)共済会運営委員会五回、(ニ)施設委員会九回、(ホ)五周年記念行事実行委員会一九回、(ヘ)地区協議会五一回、(ト)共同仕入委員会四回を開催し、同年一〇月より昭和二七年三月の間に、(イ)理事会一〇回、(ロ)常務理事会四回、(ハ)施設運営委員会一二回、(ニ)共済会運営委員会四回、(ホ)職域対策委員会三回、(ヘ)共同仕入委員会四回が行なわれた。

施設の数は、昭和二六年四月より同年九月までの間に七カ所が新設され、九ケ所閉鎖され、同年一〇月より昭和二七年三月までの間に、新設、閉鎖とも各五ケ所で、昭和二七年三月末現在の施設数は、一一二カ所であつた。昭和二七年一月一日現在の組合施設を取扱商品別に分けると、食品関係四一、青果関係三一、魚類関係二一、主食関係三、利用施設関係二九であり(同一施設で数種の商品を扱うものは、それぞれ各一と計算したため、この合計数は、施設の実数より多いこととなる。)その他、職域支部として、二四あつた。

組合本部の共同仕入委員会による共同購入は、昭和二六年七月一日より始められ、醤油、味噌、酢、ソース、食用油、木炭、薪、石けん、正月用品等を取り扱い、取扱金額は、昭和二六年七月一日から昭和二七年三月三一日までで、仕入総額金一一、三五二、四二三円七〇銭に達し、これによつて、従来不統一であつた商品の価格を統一することができ、共同購入の一層の拡大が強調された。なお、この本部共同仕入委員会の外、中野島支部家庭会では、組合員が直接共同購入として、木炭を予約購入した。

昭和二六年七月川崎市生協運営委員会、同年八月神奈川県生協運営委員会ができ、それぞれに川崎生協の理事が委員として委嘱され、また、昭和二六年六月四日から一六日まで、神奈川県生協係が川崎生協の全施設の指導監査を実施し、同年一〇月一七日神奈川県生協運営委員会が、中原支部家庭会館を視察した。なお、昭和二六年一〇月からの第一一期においては、施設担当者の教育に重点がおかれ、地区協議会による生協教育、施設運営委員会による個々の施設の調査、指導が行なわれ、また、昭和二六年一〇月の生協指導者講習会には、施設担当者四名が出席した。

組合員に対する教育、文化活動としては、昭和二六年中に組合ニユースの発行が始められ、東京烏山生協、砧生協の見学会、東大生協との婦人懇談会が開かれ、今井、鹿島田第二、中丸子等の支部で洋裁、編物、内職の講習会が行なわれ、また、メーデーに婦人組合員三〇名が湯茶接待、即売会に参加し、主婦の関心が高まつて、今井支部婦人部、菅、中野島に家庭会が結成され、さらに中原支部には、家庭会館ができて、一階は総合配給所と理髪部、美容部に、二階は集会場に利用されていた。

昭和二六年九月、第一五回国際協同組合デーを期して、川崎生協創立五周年記念行事が行なわれ、記念祝賀会をはじめ、映画会二〇カ所、人形劇等一カ所の催しや、記念即売会が全地域にわたつて行なわれ、これらに要した費用は、合計金二〇〇、四四九円五〇銭であつた。

昭和二六年四月より同年九月までの組合決算は、組合の総勘定と、その内訳としての本部会計、施設会計とを区別して行なわれ、本部会計の剰余金八六九、六五一円七四銭は、前期よりの繰越欠損金に補填し、施設会計の剰余金五六二、五〇二円四五銭は前期繰越剰余金二九七、一四三円六七銭と合わせて、そのうち約金六〇〇、〇〇〇円を無給家族労働者に期末手当として支給し、その残額を次期繰越とすることに、総代会で決議された。昭和二六年一〇月より昭和二七年三月までの決算も、総合勘定と本部会計、施設会計とによつて行なわれ、本部会計剰余金四六四、〇七〇円五銭は、繰越損失金の補填に、施設会計剰余金四二七、二六五円四四銭は、次期繰越金にすることが、総代会で決議された。

(三) 昭和二七年当時

甲第三号証の四ないし六、同第五ないし第一〇号証、同第一二号証、同第二二号証及び乙第八、第九号証によれば(なお、甲第六ないし第八号証及び第一〇号証が、昭和二七年に作成されたものであることは、証人丑久保正三郎の証言によつて認められ、同第一二号証は、その記載内容よりして、昭和二七年中に作成されたものと認められる。)、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

昭和二七年四月より昭和二八年三月までの間に(従来川崎生協は、年二期制を採用していたが、昭和二七年四月より年一期となつた。)、川崎生協本部では、総代会の外、(イ)理事会一二回、(ロ)常務理事会一一回、(ハ)監事会五回、(ニ)共同仕入委員会二五回、(ホ)経営指導委員会一八回、(ヘ)組織指導委員会六回が開かれた。理事会においては、毎月の本部及び共同購入の各会計報告が行なわれ、労働金庫の預金、借入金関係の報告が行なわれた外、本部職員の採用を決定し、その他川崎生協の業務活動について、討議、承認された。

この間組合施設は、一〇施設が開設し、三施設閉鎖して、昭和二八年三月末現在合計一一九施設となつた。また、昭和二七年一〇月南河原支部が結成された。

本部の共同仕入委員会による共同購入は、昭和二七年四月より昭和二八年三月までの間に、仕入高金一七、七四一、五〇九円九〇銭、売上高金一八、八〇九、五六七円五〇銭に達し、この間統一仕入強化の目的で、共同仕入委員会の下に、燃料部と食品部との専門委員会を設けて、毎月二回会合を行なうことにした。この本部共同購入の外、各地域の婦人部が中心となつて、中原支部婦人部では、木炭、石けん、蚊取線香、毛糸、綿、脱脂綿、足袋等、中丸子支部婦人部では、木炭、石けん、脱脂綿、南河原支部婦人部では、木炭、正月用品、足袋、ゴム長靴、雨靴等、鹿島田第二支部でも婦人を中心に毛糸、ちり紙その他雑貨品、南加瀬支部婦人部では練炭等の共同購入が行なわれた。

施設担当者等に対する教育、指導としては、昭和二七年三月に八日間にわたつて川崎市生協係の協力を得て、全施設従業員に経理講習を行ない、さらに、三月末より四月初旬にかけて、監事による全施設の帳簿監査が行なわれ、同年四月川崎市生協運営委員会による施設視察、同年一〇月本部理事による施設視察が実施され、また、毎月一回地区協議会において理事による基礎的な教育が行なわれた外、「日協連」主催の生協幹部職員講習会への参加、経理嘱託による施設の経理指導、清水明大教授による施設担当者を対象とした講演会などが開かれた。施設従業員の商人性の克服は、従来から川崎生協でも検討されていたところであるが、昭和二七年頃から全国の生活協同組合で商人吸収の是非が論ぜられるようになり、神奈川県下の生活協同組合が集まつて、この問題を研究し、川崎生協でも、昭和二七年六月二四日施設の経理指導のためのオルグ制の採用が論ぜられ、同年一二月九日この問題のために開かれた特別役員会では、問題点として、(イ)商人と変らない施設担当者がおり、組合員と非組合員を区別せず、組合ポスターを貼つていないところがあること、(ロ)利用高券を出しているところと出していないところとまちまちであること、(ハ)共同購入に協力しないものがあること、(ニ)組合員に無関心なものが多いこと、(ホ)個人商店が組合施設となる際名目組合員を作つていることなどがあげられ、これを克服するには、施設の経理を公開し、施設業務が個人の利益追及のためのものでないことを組合員に理解させる必要が説かれ、当面の結論として、(イ)員外利用の禁止、(ロ)名目組合員の排除、(ハ)人事権の確立があげられた。この特別役員会の議事の内容は、川崎生協のニユースによつて、各組合員に知らされた。同年一二月二五日の理事会では、従来施設従業員の採用、退職の場合の処理が簡単すぎたので、以後は必ず理事会承認とすることが決定された。また、理事会で採り上げられた施設に対する個別指導の事例としては、今井燃料部に対し、経営指導委員会が二回委員会を開き、施設担当者本人を交えて討議したが、同人が川崎生協脱退を申し入れたため、これを認めて、施設を閉鎖し、その旨を支部及び税務署に通知したものがあり、また組合施設加入申込一〇件について、経営指導委員会の実地調査、申請者よりの意見聴取等を行なつた後加入を認めたが、その際加入承認前に、申請書を受理し、組合施設として事業を始めさせた事務処理上の手落ちが反省された。

組合の資金調達に関連して、昭和二七年四月信用組合神奈川県労働金庫が事業を開始し、川崎生協佐々木組合長が監事に選任されたが、経営指導委員会と労働金庫との話合いにより、川崎生協の全施設が定期預金に加入し、これを見返りとして融資を受けることとなり、労金査定委員会を設けて、施設借入金については、その地域の全施設担当者が負担するため地区議長が連帯保証をすることなどの査定方針を決定し、理事会で融資規程が作られた。

昭和二六年一一月の第一〇期通常総代会において、総代より剰余金の組合員への分配が主張されたが、組合ではなお多額の繰越損失金を有しているところから、これに代えて、利用高による割戻しを実施することとし、利用高券、サービス券の発行を決めたが、組合員増加のため、非組合員にも、これを渡し、それを出資金に代えて組合加入を勧誘することとした。なおこの割戻しは、将来の正規の割戻しのために、(イ)利用者を全部組合員にすること、(ロ)組合員名簿の整備を目的とした。

教育、文化活動としては、婦人部活動を重点に、婦人活動家会議等が持たれ(もつとも、これは数回で続かなかつた。)、また各支部婦人部で、前記の共同仕入の外、懇談会、映画幻灯会、料理、生花、洋裁、編物等の講習会その他が開かれた。その他、理事、施設担当者らが、関西の灘生協、神戸生協を見学し、研究会を開催し、国際協同組合デーには、川崎市内の四つの生活協同組合の共同主催で記念大会が開かれ、その他各支部、地区で映画幻灯会、のど自慢大会、相撲大会、演芸会等が持たれた。

昭和二七年四月より昭和二八年三月期の決算は、総合決算に一本化され、剰余金一、〇二四、五五二円一銭については、出資配当準備金六七、二一〇円、納税引当金四五〇、〇〇〇円、繰越欠損金補填金四四四、九八三円一六銭、後期繰越金六二、三五八円八五銭と処分することが総代会で決議された。

なお、昭和二八年六月の第一二期総代会における監事の監査報告においては、(イ)組合員の実体が把握されていないこと、(ロ)班及び支部の活動が不活発で、組合員の意思が組合運営に反映されていないこと、(ハ)売上高に比して出資金が少ないこと、(ニ)各施設の帳簿に不備があること、(ホ)売買差益が施設によつて相当差があり、現金管理も不十分であること、(ヘ)組合標示が不完全であること、(ト)本部会計、共同購入会計、共済会会計は正確で、決算も正しく行なわれていることが指摘された。

川崎生協は、昭和二八年四月より、独算制から本支部会計単一化のため、本支部間の勧定科目の統一、日報制度の採用を行ない、昭和二八年四月からの運動方針として、施設の什器備品などの組合財産と個人財産との明確な区分、商品現金の管理の徹底、経理の公開、組合員の再登録、組合員台帳の整備等がかかげられ、組合機構の改善強化と購買事業の充実等が図られた。

三  原告らの事業活動

1、原告岩淵の場合

当事者間に争いのない事実と甲第二九号証及び原告岩淵本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。

原告岩淵は、もと菅原電気株式会社に勤務していたが、昭和二四年初頃家屋を新築した際、附近に川崎生協の組合員が多数居住していたところ、その家屋の一部を川崎生協の施設として賃貸するよう求められ、これに応ずるととともに、その施設の主任として、川崎生協の事業に従事するため、菅原電気を退職した。同原告の担当する施設は、中野島分配所と称し、当初は稲田支部に所属し、登戸配給所を通して本部から商品の分荷を受けていたが、昭和二五年頃同配給所が閉鎖され、稲田支部が解体するようになつた際、登戸配給所よりの分荷商品額等約金五、六万円を清算することとなり、当時中野島分配所を中心に事実上存在していた中野島支部の役員より、右金額を立て替えて貰つて、これを清算し、右立替金は、その後同分配所の売上金より返済した。

同分配所は、当初は、同原告とその妻が、川崎生協の従業員としてこれに従事し、その後間もなく中野島役員会の決定により、従業員が増加した。独立採算制の採用前は、売上金を登戸配給所に持参していたが、独立採算制後は、本部での共同購入に参加し、また、中野島支部家庭会の独自の共同購入に協力したが、その他の仕入は、同原告がこれを行ない、販売代金は、同原告が決定したものの、支部役員会、家庭会などによつて、いろいろの注文を受け、制約されていた。取引内容は、入、出金伝票、金銭出納帳、仕入帳、買掛、売掛、当座等の帳簿に記載し、本部の決定した給料額及び建物賃貸料を売上金より取得し、本部に対し、その決定にかかる繰入金を納入し、中野島支部の役員会及び家庭会の経費として、毎月それぞれ金一、〇〇〇円及び金五〇〇円を売上より支出していた。

昭和三一年四月独立採算制が廃止され、施設が本部直営となつた時も、妻の反対を押し切つて、率先して直営になり、その際従来の買掛金等の事業関係の債務をすべて弁済した上、商品、什器、現金等を本部に引きついだが、決算したところ、剰余金が約金一六、〇〇〇円あつたため、中野島支部では、これを支部運営費として、本部に対し要求したが、本部からは現実には支払われなかつた。

本部直営になつてから後の昭和三一年一二月中野島分配所の主任を稲垣某と代わり、同原告は、川崎生協の中丸子センターに本部の指示によつて転任したが、家族の反対等によつて、昭和三二年四月川崎生協を退職し、中野島分配所の建物の明渡しを受けたが、その際同分配所にあつた桝等の若干を組合に対する特別出資金、給料の未払い分等の未清算分に当てるため留置した外は、川崎生協の什器備品及び商品等は、すべて組合本部に引きあげた。

乙第一四号証及び証人中里恒曠の証言中には、右認定に反し、独立採算制後は、原告岩淵が自由に事業を行ない、その利益を享受していたと解される趣旨の記載及び供述があるが、原告岩淵本人尋問の結果及びその記載内容よりすると、乙第一四号証は、中野島支部、中野島分配所、原告岩淵の三者の関係が明確に区別されておらず、しかも、この点が同原告が個人として事業所得を有していたかどうかの判断について極めて重要なことであることよりすれば、乙第一四号証の記載をそのまま信用することはできず、これに基づく中里証人の証言も、直ちには措信できない。他に前記認定に反する証拠はない。

2、原告大川の場合

当事者間に争いのない事実と乙第一五号証及び原告大川本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。

原告大川は、もと池貝鉄工所に勤務し、川崎生協の組合員であつたが、川崎生協のソースの配給において、残つた分まで組合員に平等に分けたことを知り、川崎生協について深い共感を抱いていたところ、昭和二一、二年頃、川崎生協本部より同原告の住居を施設として借り受けたい旨の申出があつたのでこれに応じ、当初は、本部従業員が同原告住居に来て配給業務に従事し、同原告の妻が川崎生協の従業員としてこれを手伝い、同原告も勤めの余暇に手伝うこともあつたが、昭和二四年一〇月頃本部のすすめもあつて、川崎生協従業員として同施設の主任となることになり、池貝鉄工所を退職した。同施設は、川崎生協御幸第三配給所と称し、組合の什器、備品等を用いて配給業務を行ない、当初は、二、三の品物を除いては、すべて本部から商品が分荷され、売上金を本部に納入していたが、独立採算制採用後は、本部から分荷される商品、本部の指図で問屋から届けられる商品と同原告が施設主任として問屋から直設仕入れるものとがあり、仕入の清算は、初めは全部本部を通して問屋に支払つていたが、その後直接問屋と決済するようになつた。これら商品の売価は、独立採算制採用に当たり、一割程度のマージンで販売するよう指示されていたので、これに従つて定め、またそのことは、組合員がよく知つており、組合員特に婦人の監視が厳しかつたので、これを守る外なかつた。

売上金の中から、本部の定めた給料及び賃貸料を控除し、残余の現金は施設で管理したが、日々の仕入、売上を伝票に記載し、本部が近かつた関係から、これら伝票をそのまま本部に持参し、本部において、施設の帳簿を作成していた。

昭和二七年頃から、売上金の一部を積み立て、昭和二八、九年頃これによつて店を改造したことがあり、また、昭和二五、六年頃同原告が個人で他より資金を工面して、製麺機、アイスキヤンデーの機械を購入し、これを組合に賃貸して、組合の事業として、製麺、アイスキヤンデー製造をしたが、間もなくこれを廃止した。右事業に関連して、秋葉某をこの仕事に従事させたが、同人の給料は本部に相談せずに定め、その売上金よりこれを支払つた。

本部の監査として、正式のものは一、二度しかなかつたが、本部から近距離にあつたため、本部職員が始終出入りして、事実上監査をしており、また棚卸も手伝つていた外、支部の婦人部も、忙しい時は手伝い、また目方、値段を監視していた。

昭和三一年三月川崎生協が直営制に戻つた際、一地域一店舖制を採用し、近くに御幸直配所があつたため、無理に施設を閉鎖されることになつて、川崎生協をやめることとなつたが、いきなりやめさせられては、生活に困るため、組合との間に決算をせず、従来の商品及び買掛金、売掛金をそのまま引きついで、個人として営業を継続した。

証人中原敏夫の証言中には、原告大川が独立採算制用後個人として事業を営んでいたものである趣旨の供述があるが、右供述は同証人の意見であり、しかも、同証人の証言によれば、川崎生協本部及び支部、組合員と施設との関係等を十分調査検討した上での意見とは認められないから、同証人の右供述は直ちには採用できず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

3、原告北沢の場合

当事者間に争いのない事実と甲第三〇号証の一ないし一〇、同第三一号証の一ないし五、同第三二号証、同第三五号証、乙第一六号証の一、二及び原告北沢本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。

原告北沢は、大正一〇年頃から三機工業株式会社に勤務し、昭和二一年一〇月頃同社従業員全員が川崎生協の組合員となつた際一緒に組合員となつたが、その頃自宅の周囲の主婦達の間で、同原告方を川崎生協の配給所にして欲しい旨の要望があり、川崎生協の役員等からもその旨の申入があつたので、自宅の一部を提供することとし、当初は、川崎生協本部より係員が来て品物の配給、販売を行ない、同原告の妻がこれを手伝つて、川崎生協より給料を貰つていた。その後、配給品について登録制度が採用され、同原告方に多数の組合員が登録して、配給業務が忙しくなり、本部役員らのすすめもあつたので、三機工業株式会社の引き止めるのを断わつて、昭和二三年春頃同社を退職し、川崎生協の従業員となり、同原告方を川崎生協の渡田山王配給所として提供し、同配給所の主任となり、一家で配給業務に従事することとなつた。その際、約三〇万円の資金で、店舖を拡張したが、その資金は、実父からの調達と同原告の退職金等を当てた。さらに、同原告は、昭和二五年及び昭和二七年に、自己の資金で自動三輪車各一台を購入した。これら店舖及び自動車については、川崎生協に賃貸していた。

独立採算制採用後、商品の仕入は、本部の共同仕入の分荷と本部の指定問屋からの仕入とがあり、その売上金は、本部の指示に従い第一銀行川崎支店の同原告名義の当座預金に預け入れ、仕入代金は、この当座預金より振出した小切手により本部を通して支払つた。売上、仕入、預金額等は、毎日これを出納帳に記載し、毎月本部係員の指導の下に、合計残高試算表を作成した。また、一般商品の外、組合員の要望に応じて、雨靴、洋傘、蚊張、ゆかた、毛布、足袋、毛糸などを本部より取り寄せ、組合員に配布したが、これらについては、配給所のマージンはなかつた。

給料は、本部からの給与支給表に従つて、売上金のうちより受領した。本部に対しては、本部の指示により、配給所が了承し、地区議長会議の承認した繰入金(当初金五、〇〇〇円、昭和三〇年当時金一一、〇〇〇円)を納入し、また、各事業年度の剰余金のうちから、本部の指示に従つて、運動会、映画会その他の組合の文化活動の費用として支出した外、本部が共同購入センターを設立した際にも、その建築資金の一部として支出した。なお、同原告の施設については、支部組織はなかつたが、婦人部があつて、共同購入を行ない、また会合を開いて、取扱商品についての注文をしていたが、その会合のための茶菓子等も、同原告の施設で負担していた。

昭和三〇年になつて、国税庁の指示により、川崎生協の各施設を個人事業として、施設主任に所得税が課されることとなつた際、川崎生協本部がこれについて面倒をみてくれなかつたので、同原告は、これを不満として、昭和三一年五月頃川崎生協を脱退したが、その際組合からの仕入未払金七六、三〇〇円、繰入金一三、〇〇〇円を労働金庫積金二二、〇〇〇円、同預金五〇〇円、組合日掛貯金一四、四〇〇円、共済出資金二、〇〇〇円、共同購入資金二〇、〇〇〇円、貯金利息金三〇〇円で相殺し、残額金二一、六三〇円を現金で支払つた。

乙第一〇ないし第一二号証には、渡田山王配給所の仕入先であつた者が、原告北沢個人と取引していた旨述べているが、同原告名義で当座預金が組まれていたことよりすれば、これによつて支払いを受けていた取引先が、そのように理解していたとしても、特に異とするに足りない。もつとも、これら各証には、ことさら原告北沢と川崎生協とを区別していた旨の記載もあるが、反対尋問を経てないこれら書証は、税務官庁に迎合したものとも考えられ、いずれにしても、これによつて、直ちに、原告北沢が昭和二五ないし二七年当時個人で事業を営んでいたと断定しうるものではない。また、証人鴨脚秀明の証言中には、原告北沢が個人で事業を営んでいたものである旨の供述があるが、同証人自身の述べるとおり、右は本部関係等を調査していない同証人の意見ないし推測にすぎないから、採用することはできない。他に、右認定を覆すに足りる証拠はない。

4、原告小島の場合

乙第一七号証の一ないし三及び原告小島本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。

原告小島は、もと農業を営み、かたわら小規模な野菜の仲買をしていたが、昭和二一年組合員等のすすめで、川崎生協の従業員となり、自宅を川崎生協塚越配給所として提供し、そこの主任となつた。

独立採算制後も、組合本部に近かつた関係から、本部からの分荷商品が多く、また売上等の記帳も本部にしてもらつていた。売上代金と仕入との差額は、同原告が保管し、このなかから、本部の定めた給料を控除するとともに、本部繰入金、一カ月金一〇、〇〇〇円を納入していた。

同原告の施設については、支部組織はなかつたが、婦人部があり、いつも施設に出入りして、時には施設の業務を手伝い、また、値段等を監視し、さらには剰余金をもつて、取扱品を増加させ、また販売代金の値下げを要求した。

昭和三一年、同原告の施設の営業は個人事業であるとして、所得税が賦課されることとなつたが、これを本部が了承したことに憤慨して、川崎生協を脱退したが、その際本部との清算は、行なわれなかつた。

なお、乙第一七号証の二には、独立採算制の採用に当たり、本部との関係をきれいにしたとの記載があるが、それが一般論なのか、同原告の場合なのか、また具体的にどのようなことを指すのか明白でなく、しかも、証人木村傑の証言によれば、同号証は、乙第一七号証の一を作成したところ、これを見た東京国税局係員が不備であるとして、さらに調査させたものであること、乙第一七号証の三には、独立採算制採用後は、本部繰入金の納入の外は、個人商店と変わりがなかつた旨の記載があるが、その具体的事実、とりわけ利益の処分については、なにも明らかにされておらず、しかも、同号証は、原告小島が本訴提起後に作成されたものであること、これに加え、原告小島本人尋問の結果によれば、乙第一七号証の一ないし三の同原告の署名は自署ではなく、同原告は漢字は十分に読めないことなどよりすれば、乙第一七号証の二及び三の前記記載は、直ちには措信できず、また、同原告は、個人として事業を営んでいた旨の証人木村傑の証言も、その供述よりすれば、川崎生協の本部の活動、原告小島と組合員との関係等を無視したものと認められ、採用し難く、他に前記認定を覆すに足りる証拠はない。

5、原告見目の場合

甲第一三号証、同第一八号証の一ないし四、同第二〇号証、同第二三号証、同第二四号証の一ないし三、同第二五号証の一、二、乙第一八号証、同第二〇、第二一号証、同第二六号証並びに証人阿部軍太郎の証言及び原告見目本人尋問の結果(第一、二回)を総合すれば、次の事実が認められる。

原告見目は、三菱重工業株式会社に徴用工として勤務していたが、終戦後工場閉鎖によつて、同社を自然退職し、工場敷地の片付け仕事をしていた竹中工務店の作業に従事していたが、昭和二二年一一月頃から川崎生協の鹿島田配給所に勤務して、配給業務を手伝つていた。その後、しばらくして、同配給所の利用区域が広範囲にわたるところから、組合員の要望により、鹿島田第二分荷所を設けることとなり、同原告の自宅をこれに提供し、同原告はその施設主任となつた。

鹿島田地域には、昭和二二年頃から鹿島田支部があり、鹿島田第二分荷所も同支部に所属していたが、昭和二五年頃より、第二分荷所を中心に、鹿島田第二支部が事実上結成され、同年六月八日には、同支部の管理と運営について、(イ)本部の指導方針に基づき支部機関において管理運営すること、(ロ)支部総会を年一回開催し、事業計画決算報告、運動方針等を審議決定すること、(ハ)取扱品目のうち本部送荷品以外は支部機関で分荷価格を決定し、価格については市価の五分ないし一割安を目標とすること、(ニ)支部役員会は、組合員の声をとりあげ、本部と協力して業務管理を行なうこと、(ホ)経営内容については、年二回本部の監査を受けること、(ヘ)支部業務経理は、毎月残高試算表を作成し本部に提出し、経営内容については、随時組合員に公開すること、(ト)配給業務は、支部機関の決定に従い、支部の責任経営とし、剰余金処分については支部活動費、利用高割戻及び従業員の慰労金にあてること、(チ)組合員の生活上必要な施設の新設は、支部役員会で決定し、本部の決裁を受けること、(リ)支部運営資金は、組合員の出資金によること、(ヌ)従業員の任免、給与は、本部の決定に従い、必要に応じ支部より意見を具申すること、(ル)支部活動費は、本部会計の基礎確立までは支部会計より支出し、予算月額金五、〇〇〇円とすること、(ヲ)組合員の生活知識の向上並びに慰安を目的として、生産工場の見学及び映画会、レクリエーシヨン等を特別行事として開催し、経費の一部を負担することが定められている。昭和二六年六月頃より、鹿島田第二支部を正式の支部として発足するための懇談会、準備委員会が開かれ、本部理事会の承認を得て、昭和二七年七月五日の創立総会より、正式に川崎生協支部として発足したが、その前から、鹿島田第二支部ニユースを発行し、また、役員会を毎月一回位開催し、利用施設の新設、施設の管理運営、組合員への割戻、利用施設の料金等が協議、決定されており、事業計画、事業予算が定められていた。鹿島田第二支部の規則によれば、支部は、本部定款に従い、(イ)購買事業、(ロ)利用事業、(ハ)共済事業、(ニ)文化事業等を行なうものとし、支部機関として、事業報告、決算報告及び運動方針を審議決定する総会、支部長、副支部長、執行委員、監査の役員を置き、支部の事業は、本部理事会の指導に従うことなどが定められている。同支部では、昭和二七年四月から昭和二八年三月までの間に、定期役員会一二回、臨時役員会二回、その他五回の役員会を開き、ニユース発行、経営研究会、生産工場見学会、のど自慢大会、与論調査等を行ない、昭和二八年六月二八日総会を開いて、右期間中の事業報告、決算報告を承認し、翌期の事業計画を決議した。

原告見目が主任の施設である鹿島田第二分荷所(後に、第二配給所)では、独立採算制採用後は、本部から分荷される統制品の外は、同原告が商品を仕入れていたが、次第に、本部の共同購入による仕入が増大するに至つた。販売価格は、本部から分荷されるものについては、本部より指示されたところに従い、同施設で仕入れた分については、同原告が決定していたが、特に重要なものについては、支部役員等の意見を聞いて決定した。売上代金の保管は、当初は、同原告が行ない、同原告名義の当座預金を組んでいたが、後には、支部長名義で当座預金を組んで、これに払い込んだ。借入金については、川崎生協が銀行取引を停止されていた関係上、同原告名義で行ない、そのための担保として、同原告が株の売買によつて得た利益を定期預金として、差し入れたこともあつた。施設の従業員は、同原告の兄が郷里で中学校の先生をしていた関係から、郷里から雇い入れたことが多かつたが、雇入れについては、支部役員会、本部等の承諾を得ていた。施設の建物は、同原告の所有で、これを川崎生協に賃貸していたが、昭和二七年には、同原告がかねてより所有していた建物を改造して、これを第二支部の家庭会館として提供し、珠算、書道の指導等の文化活動、その他会合の会場にあてた。施設の剰余金については、支部において処分が定められ、昭和二六年一〇月より昭和二七年三月までの期間については、繰越利益金及び当期利益金の合計金五一、七九五円七五銭を、支部結成記念配当に金一〇、〇八〇円、店舖修理費に金一二、〇〇〇円、総会費に金六、五〇〇円、その余を共同購入資金にあてることが、支部総会で決議されている。この支部結成記念配当としては、組合員に醤油四合ビン各一本が配られた。その他、同施設では、本部の方針に従い利用高に応じて割戻しをすることとなり、昭和二七年五月頃より、組合員に組合員証番号、組合員氏名等を記載した利用高通帳を発行し、三カ月ごとに利用高を計算して、利用高に応じて、若干を割り戻した。なお割り戻しの対象とならなかつた理髪については、組合員と非組合員について、料金を異にし、組合員を安くした。

昭和三一年三月川崎生協が独立採算制を廃し、施設について直営制に復帰した際、鹿島田第二配給所も、その資産を本部に引き継いで、直営施設となり、その売上金を本部にすべて送金するようになつたが、昭和三二年三月三〇日鹿島田第二支部臨時役員会で、税務当局が昭和二五ないし二七年分所得税に関し、原告見目に個人事業所得ありとして所得税を賦課して来たのに対し、本部においてこれを負担する熱意がなく、また、直営制後全収入を本部に送り、鹿島田支部としては、相当の利益をあげているのに、本部経理が赤字であることなどを不満として、第二支部が独立して生活協同組合となることを決議し、同月三一日をもつて、川崎生協を脱退することとなり、その後脱退の清算について、当時の第二支部長井上好郎らと本部役員との間で交渉が続けられ、昭和三二年一二月、同年三月三一日現在の第二支部の資産のうちレジスター一台と棚を除く合計金一、四一九、九六六円を第二支部が取得し、また同日現在の負債金六六七、七〇〇円及び川崎生協本部の債務金一八三、三〇二円の合計金八五一、〇〇二円を第二支部が引き継ぐことを内容とする清算契約書が川崎生協理事長佐々木虎三郎と鹿島田第二支部支部長井上好郎との間に締結された。なお、右清算契約による川崎生協の損失は、整理損として帳簿処理が行なわれている。

鹿島田第二支部は、昭和三二年四月一日をもつて鹿島田家庭生活協同組合を設立したが、県知事の認可が得られなかつたため、昭和三三年二月二八日解散し、その資産を引き継いで、同年三月一日株式会社鹿島田共栄市場が設立され、原告見目は同社の社長となつた。

乙第一一ないし第一三号証には、鹿島田第二配給所の仕入先であつた者が、原告見目個人と取引していた旨の記載があるが、独立採算制後の事業活動を誤解したか、または、ことさら税務官署に迎合したものとも疑われ、直ちには措信できず、乙第二三号証、同第二四号証の一ないし五によれば、原告見目が個人で株式の売買を行なつていたことが認められるが、原告見目本人尋問の結果(第二回)によれば、この株式売買の資金は、同原告が実父より財産分けとして貰つたものであることが認められるから、これによつて、前記認定を動かすに足りずまた、乙第二七号証の一、二によれば、食肉及び魚介類の販売許可が原告見目個人名義で与えられていることが認められるが、右は組合脱退後のものであり、また、証人津守金次郎は、鹿島田家庭生活協同組合、株式会社鹿島田共栄市場の財産の引継ぎ関係について、その係数関係を問題とするが、右は川崎生協脱退後の財産関係にすぎず、これらは、いずれも昭和二五ないし二七年当時を中心とする川崎生協加入当時の鹿島田第二支部の事業活動に関する前記認定を左右し得るものではなく、他に前記認定を覆すに足りる証拠はない。

四  税務当局の調査と原告らの申告

1  税務当局の調査

甲第二二号証、乙第七号証、証人森田三之亟、同松冨義行、同鴨脚秀明、同木村傑の各証言及び原告見目本人尋問の結果(第一回)によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

昭和二七年頃、全国的に商人が中小企業協同組合法による企業組合を組織する動きがあり、これに対し、税務当局の方では、これら企業組合は、脱税を目的とした仮装法人であるとして、これを調査するとともに、昭和二八年法律第一七三号により、所得税法第三条の二、第四六条の三(現行第四六条)が新設されるという事情にあつたが、川崎生協に対しても、昭和二八年五月東京国税局を中心に、約三週間にわたつて、本部及び施設について大がかりな調査が行なわれ、川崎生協本部は、この調査に積極的に協力した。この調査の担当者の間には、川崎生協は立直りに努力しているから、改善に時間を貸そうという見解と川崎生協は偽装法人であるから、施設主任に個人課税をすべきであるとの見解とがあり、その当時、川崎生協の理事会では、税務当局側は、川崎生協に好意的であると理解していた。

右調査結果に基づき、昭和二八年九月東京国税局長は、国税庁長官に対し、川崎生協に対する税務処理について指示をあおいだ。国税庁では、東京国税局の収集した資料よりして、川崎生協の法人性に疑いを抱いたが、当時全国的に企業組合関係の調査が行なわれており、また、それに関連して行政事件訴訟も提起されていたため、しばらく川崎生協の調査を延ばしていた。昭和三〇年七月京都の企業組合について、その事業所主任を個人事業所得者として所得税を賦課した処分に対する訴訟について、税務当局側の勝訴の判決があり、人員の余裕が出来たことなどから、川崎生協について、国税庁において調査することとし、大阪、福岡、熊本、広島、名古屋、仙台、関東甲信越の各国税局から、従来企業組合の調査を担当した経験者を中心に、職員を東京国税局に出向させ、東京国税局、川崎税務署職員らと共に、昭和三〇年八月一日から同月五日まで、川崎生協の本部及び施設を調査させ、その結果、昭和三〇年一〇月三一日付で、国税庁長官より東京国税局長に対し、川崎生協の施設責任者は、法人名義を仮装して個人で事業を営んでいるものと認められるから、施設責任者にそれぞれ所得税を課税するように指示された。この国税庁の調査に対しても、川崎生協本部及び施設は、調査に協力した。

2  原告らの所得税申告

当事者間に争いのない事実に、乙第二八、第二九号証の各一ないし三、同第三〇号証の一ないし五、同第三一号証の一ないし三、同第三二号証の一、二、同第三三ないし第三七号証の各一ないし三、証人森田三之亟、同大西信治の各証言、原告大川、同北沢、同小島、同見目各本人尋問の結果(原告見目については第一回)を総合すれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) 昭和三〇年一一月になつて、川崎税務署の署長、直税課長らが、川崎生協の組合長、専務理事らと話合いを始め、川崎生協の各施設が個人事業として所得税の申告をすれば、所得額については、組合の作成した各施設の決算書に、各施設主任の給料、施設賃貸料、自家消費分を加えた程度のもので認めるとの申出が税務当局より行なわれ、それによれば、所得税額はかなり低額のものとなることから、理事会等で協議し、いたずらに税務当局と紛争を続けるよりも、実質的に軽い税負担ですむものであれば、個人課税を認めて、これを組合で負担するとの方針の下に、その旨を税務当局に通知した。その際、原告らを含む一五施設については、川崎生協設立間もなくから存在するもので、途中から加入した商人らとは異なるから、これらについては、法人として申告するとの折衝が強く行なわれたが、税務当局がどうしても譲らなかつたため、昭和三〇年一二月二八日原告らを含む全施設について、施設主任の個人事業所得とする確定申告書が昭和二五ないし二七年分について提出された。これら申告書の作成に当たつては、各施設主任に一々相談せず、本部役員が行なつたもので、原告らは、右事実をいずれも後になつて本部役員より説明された。

原告らの申告額は、それぞれ原告らの請求原因1記載のとおりであるが、その申告書の所得金額の計算欄には、単に所得金額が記載されているだけで、収入金額、必要経費その他の明細については、なにも記載されていない(なお、原告小島の昭和二七年分については、このような確定申告が是認されている。)。

(二) なお、原告らは、昭和二八年分以降についても、川崎生協の施設主任当時の所得を個人事業所得として、次のとおり申告しているが、それは、税務当局が所得額について、大幅に譲歩したことによる。

原告名

年度

申告の種類

申告年月日

申告事業所得額

備考

岩淵

昭和二八年

修正申告

昭和三三・二・一一

一七二、〇〇〇円

確定申告は給与所得と不動産所得(合計一五五、八五〇円)

二九年

二三六、九〇〇

〃(合計一八七、九八〇円)

三〇年

二七二、〇〇〇

〃(合計二一四、五〇〇円)

大川

二八年

確定申告

三一・一〇・二〇

三五〇、〇〇〇

二九年

三四四、三九〇

三〇年

修正申告

三二〇、〇〇〇

確定申告は、事業所得二四四、一〇〇円

北沢

二八年

修正申告

六二八、八一三

確定申告は、事業所得四九二、一三五円

二九年

確定申告

六四〇、五三一

昭和三一年一〇月二九日同額の修正申告がある。

三〇年

五七四、九四八

小島

二八年

三一七、〇〇〇

二九年

二八八、〇〇〇

三〇年

修正申告

三九五、〇〇〇

確定申告は、事業所得二七一、三二二円

見目

二九年

修正申告

三三・二・五

三五三、五〇〇

確定申告は不動産所得と給与所得(合計三一一、二八六円)

三〇年

五二三、四〇〇

確定申告は、事業所得三二三、〇一六円

なお、乙第三一号証の四によれば、原告小島が、昭和三一年分につき、青色申告書により事業所得の申告をしているが、同原告は、昭和三一年三月に川崎生協を脱退しているのであるから、右事実は本訴の判断と直接関係がない。

第三当裁判所の判断

一、被告は、川崎生協の各施設は、川崎生協が独立採算制を採用してからは、各施設主任の個人事業となつたもので、川崎生協の施設と称したのは、租税の負担を回避する意図に出たものと主張する。

川崎生協において、設立当初は本部を中心に物資の購買、供給の事業を行ない、各施設に本部職員が出向いて、組合員への物資の供給業務に従事していたこと、その後配給業務が多忙となつて、施設の提供者が、それぞれ勤務先等を退職して、施設の主任として、配給業務に従事するようになつてからも、取扱物資が登録配給品を主としていた関係もあつて、原則として、本部から分荷を受け、その販売代金も全額本部に納入し、施設の主任は、本部より現実に給与の支給を受けていたこと、従つて、当時の施設主任が、川崎生協の従業員として、川崎生協の業務に従事していたものであることは、被告も認めるところである。

その後、先に認定したような事情から、川崎生協が多額の債務を拘え込み、銀行や問屋等との取引を停止される破目となつたため、昭和二四年暮頃に、いわゆる独立採算制が採用され、各施設の主任が、その個人的信用を利用して、事業資金の調達や商品の仕入れを行ない、施設の事業より生ずる利益については、本部繰入金として、予め定められた一定額を納入する外は、施設又は支部において現実の保管を担当し、また、施設主任、従業員の給料は、本部より現金で支給されず、施設の売上金より本部の定めた額を控除することとなつたのであるから、独立採算制の前後によつて、川崎生協の各施設の現実の運営方式に、相当の相違があることは否定できないものといわねばならない。

しかし、被告の主張するように、川崎生協の各施設が、独立採算制の採用の結果、すべて施設主任の個人事業となり、それ以後の川崎生協は、団体性を失い、個人事業を法人の事業と仮装するための存在と化するに至つたと断定するためには、独立採算制の採用の意図がそのようなものであり、また、独立採算制採用以後、川崎生協本部がなんら生活協同組合としての固有の活動をしていなかつたことが論証されねばならない。

しかるに、川崎生協が独立採算制を採用したのは、先に認定したとおり、配給業務の不手ぎわ、在庫商品の管理の不備その他の理由で、川崎生協の負債、赤字が激増し、銀行、問屋等の取引を停止されて、従来の事業活動をそのまま継続することが不可能となつたため、その窮状を打開し、川崎生協を再建する方法として、川崎生協の本部は、配給統制品の取扱いの外は、従前の赤字処理に専念し、組合員に対する日常の生活協同組合としての業務は、施設又は支部の段階で継続することを目的としたもので、その意味からすれば、独立採算制の採用は、川崎生協が生活協同組合として存続して行くためのやむを得ない措置であつたといわねばならない。したがつて、独立採算制採用後の最初の通常総代会である昭和二五年五月二二日の第七回通常総代会において、組合員と非組合員との取扱い上の区別、組合員と施設との密着、生産者との直結による安い品物の組合員への提供等の諸点が検討され、組合員のための施設という観点が強く押し出されており(以上の事実は、甲第三号証の一によつて認められる。)、すでに昭和二五年中から、先に認定したとおり共同購入が始められ、昭和二六年七月からは、本部に共同仕入委員会を設けて、組合員に対する分荷価格の統一がはかられているのであり、しかも、独立採算制の採用に伴ない、旧債務の整理が進んだ昭和二八年六月二三日の第一二期通常総代会においては、独立採算制から統一会計に移行するための準備をすることが、運動方針として決議されているのである(甲第三号証の五)。

次に、独立採算制採用以後の川崎生協の組織活動を検討してみるに、先に認定したとおり、川崎生協は、独立採算制採用以後も、定款に定められた毎事業年度一回の通常総代会を開催していたことは勿論、総代会において選出される理事、監事等による理事会、監事会等も定期に開催されて、会議を行なつており、その他にも、施設運営委員会、共済会運営委員会、共同仕入委員会など専門委員会の会合もかなりひんぱんに開かれていて、この点において組織体としての活動に欠けることはなかつたものといわねばならない。さらに、注目すべきことは、総代会に出席する総代についてはいうまでもなく、理事、監事等の役員に対しても、常勤の者を除き報酬が支給されないものとされており(定款第四九条―甲第二号証)、役員になつても、なんら経済的利益を伴うものでなく、しかも、甲第三号証の一によれば、役員の多くは、工場、会社に勤務するものであつて、施設主任と特別な個人的関係を有していたものとは思われない。したがつて、川崎生協が、被告の主張するように、独立採算制採用後は、個人事業者が、租税を回避する目的で法人を仮装したものにすぎず、川崎生協の存在が、施設主任の個人的利益のためだけのものであつたとすれば、施設主任と無関係の者が、なんの利益もないのに、川崎生協の役員となつて、多数の会合に出席し、川崎生協の在り方を論ずるというようなことは、あり得ないことである。そのうえ、甲第三号証の一、同号証の六によれば、川崎生協の総代会には、日本消費生活協同組合連合会その他生活協同組合の代表の外、神奈川県民生部長代理や川崎市商工課長が来賓として出席して挨拶しているのであり(なお、神奈川県知事は、川崎生協の監督官庁である。)、甲第二二号証によれば、川崎生協の組合長や常務理事が、日本消費生活協同組合連合会理事、神奈川県消費生活協同組合連合会長を勤め、また神奈川県生協運営委員、同県生協指導委員、川崎市生協運営委員、さらに厚生省消費生活協同組合中央運営協議会委員であつて、これらによれば、川崎生協は、他の消費生活協同組合やその連合会のみならず、監督官庁によつても、消費生活協同組合として、遇せられていたものと認められる。

次に、川崎生協本部が、独立採算制採用以後、組合員に対してした文化、教育活動としては、先に認定したとおり、組合員の主婦に対する内職の指導、斡旋、映画会、人形劇、幻灯会の開催、他の消費生活協同組合の見学、懇談などがある。国税庁の調査において、調査結果の取りまとめをした証人松冨義行は、川崎生協は、文化活動をしていなかつたと証言するが、川崎生協が、右に述べたような文化活動をしていたことは明らかであり、しかも、文化活動は、消費生活協同組合の重要な事業、目的の一であり(消費生活協同組合法第一条、第二条第一項第二号、第一〇条第一項第三号)、昭和二七年九月一三日の川崎地区の消費生活協同組合が共同主催した第一六回国際協組デー記念行事に対し、神奈川県及び川崎市が、それぞれ金一〇、〇〇〇円、金三五、〇〇〇円の補助金を出しているのも(以上の事実は、甲第二二号によつて認められる。)、消費生活協同組合における文化事業の果すべき役割を示唆するものというべく、川崎生協の文化事業をことさらに無視しようとする松冨証人の証言は、採用し難いものであり、このことは同証人が被告の本件処分に実質上大きな役割を果していると認められるだけに、本件の判断に重要な影響を及ぼすものといわねばならない。

さらに、独立採算制のもつもう一つの側面、すなわち、支部ないし施設のそれぞれの地域、場所に応じた活動とそれによる組合員との密着ということも、消費生活協同組合の本質との関連で、見逃すことはできない。支部ないし施設に、川崎生協の活動の重心を置き、組合員と直結した活動を行なうべきであるとの方針が、独立採算制採用前の昭和二四年三月の第五回通常総代会で決定されたことは、先に認定したとおりであつて、独立採算制の採用が、当面は、川崎生協の赤字の累積に対する打開策として採られたものであるとしても、同時にそれが、前記通常総代会の決定の趣旨にもそい、支部ないし施設単位の日常業務の遂行という側面を持つことは、否定できないところであろう。ところで、消費生活協同組合は、本来消費者が集まつて、生活の安定と生活文化の向上を期することを目的とするものであり(消費生活協同組合法第一条)、組合員に最大の奉仕をすべきものであつて、営利を目的として事業を行なうことは、許されないものである(同法第九条)。したがつて、消費生活協同組合の事業は、組合員の生活の場に密着して行なわれなければならず、一定の地域に居住し、または一定の職域に勤務する者によつて構成さるべきことが定められているのも(同法第一四条第一項)、この趣旨に出たものと解される。しかも、組合員に対する剰余金の割戻しも、株式会社における配当とは異なり、必ずしも組合員の出資額に応ずる必要はなく、事業の利用分量に応じて行なうこともでき、法はむしろ利用分量による割戻しを期待しているものと解される(同法第二条第一項第五号、第六号、第五二条参照)。このような法の建前よりすれば、消費生活協同組合の事業が、組合員に直結した施設ないし支部を中心に行なわれるべきことは当然のことであり、しかも、剰余金の利用分量による払戻しという趣旨よりすれば、それぞれの施設ないし支部を中心に、組合員の意思によつて剰余金の効果的利用をはかることも、消費生活協同組合の本旨にもとるものとはいえず、それによつて、団体の法人性がそこなわれるものでもないといわねばならない。この意味からして、川崎生協が独立採算制を採用し、支部ないし施設中心のそれぞれの地域に応じた事業活動を採用したことは、消費生活協同組合としての正道を踏みはずしたものということはできず、むしろ、独立採算制のこの面のみを見る限り、消費生活協同組合としての発展を示するものとも評価し得よう。

以上の次第で、川崎生協の組織活動の観点より見る限りでは、川崎生協は、独立採算制採用後もなお消費生活協同組合としての実体を失つたものとはいえず、被告の主張するように、個人事業者が租税を回避するために、法人を仮装していたものと断定することはできないものである。

二、被告は、原告らが個人として事業所得を享受していたものと主張するに当たり、川崎生協の施設は、一様に施設主任の個人事業であつたとの前提の下に、原告らのそれぞれの事業の実態を個別的に明らかにする方法をとらず、一般的に川崎生協の施設の事業内容を主張するに止まる。

川崎生協の施設主任のなかには、先に認定したように、税負担の軽減(船橋賢治)、営業許可の取得の便宜(坂本政一)、顧客の拡張(高橋武治)等の意図で組合の施設となり、加入の初めから消費生活協同組合の目的を理解しないものもあり、そのため事業の遂行においても、商人的な色彩が強く、川崎生協の従業員としての意識が乏しく、生計費として、定められた給料額によらず、売上金のなかより必要に応じて費消し(船橋、坂本、高橋、大久保藤作、中里伊三郎、平名泓)、個人商人とまぎらわしいもの、あるいは個人事業者と認められ得るようなものが存在したことは、否定できないところである(このような施設主任として、右に掲げた者の外、土本和司、飯田長蔵も個人事業者とまぎらわしいものである。)。しかし、これらの者についてみても、これを個々的に見れば、川崎生協本部の組合員獲得の要請に対し、自分で全額出資金を立て替えた者(坂本、高橋)もあれば、半額位を立て替え、その余を新規組合員に現実に出資させた者もあり(船橋)、また、組合員と非組合員で料金を区別した者(船橋)と組合員、非組合員を区別しない者(中里)とがあり、また組合の会合に出席した者(船橋、坂本、高橋)もあれば、出席しない者もあり(飯田)、脱退時に、川崎生協と一応の清算をした者(坂本、高橋)と全く清算をしていない者(船橋、中里、土本)とがあるというように、それぞれ組合との関係については、ニユアンスの違いが認められる。しかも、注目すべきは、以上挙げた者は、大久保を除き、いずれも独立採算制採用後に川崎生協の施設主任となつたもので、施設主任になる前は商人であつたか(大久保、船橋、中里、高橋、土本、飯田)、また個人事業者となるべく準備していた(坂本、平石)のであり、これらの者のうち、船橋、坂本、中里、高橋、土本の五人までが昭和三〇年八月以前に川崎生協の施設主任をやめて、個人で、または法人を組織して新たに事業を続けているのである。他方、当初本部職員として採用され、その後施設主任となつた大西信治の場合は、施設で扱う自由商品の多くを本部の共同仕入により、その組合員に対する分荷価格も本部の指示に従い、さらに支部があつて、施設の管理、剰余金の処分方針が定められていて、これを個人事業と認めることは困難である。

以上述べたとおり、川崎生協の施設といつても、個人商店と異ならないようなものもあれば、川崎生協の一施設であつて、その主任は、川崎生協の従業員と認めるのが相当なものもあつて、これを被告主張のように、川崎生協の全施設の事業内容が一律のものであるとし、一般的にこれを論断することはできないものというべきである。

川崎生協が、独立採算制の採用とともに、先に認定したように商人吸収策をとつたことは、組合員の増大、事業内容の充実のために便宜な方法であつたとはいえ、当時本部が赤字対策に追われ、そのため施設に対する監督の目がとどかず、しかも、独立採算制という施設主任の組合意識に高度に依存する事業体制の下においては、施設主任のうちに不良分子がまぎれ込み、組合が内部から崩れる危険性を持つようになることは避けられないところであり、先に認定したように、昭和二七年になつて、商人吸収策の是否が論じられるようになつたのも、ことがらの当然の成り行きといわねばならない。しかし、川崎生協としても、商人吸収策に伴うこの危険を放置していたものでないことは、早くも昭和二五年一二月の第八回通常総代会において、施設主任の商人的傾向の克服の必要性が報告され(甲第三号証の二)、先に認定したように、その後繰り返しこの問題が論じられており、また施設主任その他の従業員に対し、施設指導委員会の指導、講習会、講演会の開催、本部役員、監事、さらには、日本消費生活協同組合連合会や神奈川県生協係等による施設の監査なども行なわれているのである。

このように、川崎生協は、その施設のなかに不良分子があることを直視しつつ、これに対する解決の努力を続けていたものと解すべく、被告の主張するように、川崎生協が個人事業者が租税の回避のために法人を仮装していたものにすぎないとすれば、このような不良分子の存在を、川崎生協が公式の記録に残し、またニユース等によつて、これを組合員に知らせるというようなことは、あり得ないはずである。

したがつて、原告らが川崎生協の従業員としてではなく、個人として事業を営み、収益を享受していたかどうかの判断は、川崎生協の他の施設主任のなかに、どのような事業経営をしていたものがあつたかによつて決められるものではなく、原告らそれぞれについて、個別的、具体的に判断されなければならない。とりわけ、原告らは、先に挙げた不良施設の場合とは異なり、本来商人であつたのではなく、従来会社等に勤務し、または、農業に従事していたものであり、いずれも川崎生協が独立採算制を採用する以前から、施設主任であつたもので、しかも、甲第三号証の五、同第七号証によれば、昭和二七年度において、原告見目は、川崎生協の理事で、共同仕入委員会副委員長、経営指導委員会委員であり、原告岩淵、同北沢、同小島は共同仕入委員会委員、原告大川は、共同仕入委員会の下の食品部の委員であつたことが認められ、したがつて、原告らは、川崎生協の本部活動にも従事していたもので、これを不良施設と一律に論じ得ないことは明らかである。

三、そこで、被告が、川崎生協の各施設が施設主任の個人事業であつたと主張する根拠として挙げる諸点について、以下原告らの場合を中心に、順次検討することとする。

1  商品の仕入及び販売について。

被告は川崎生協の各施設の主任は、自己の一存で、自由に商品を仕入れ、これを販売していたと主張する。

先に認定したとおり、原告らが、独立採算制採用後、本部の共同購入にかゝる商品及び配給統制品を除いて、自己の名義で商品を仕入れていたことは事実である。しかし、独立採算制の採用が、先に述べたとおり、川崎生協の赤字の累積の結果、川崎生協としての取引が不可能となり、施設主任の個人的信用を利用して、事業を継続することを目的とするものであつたのであるから、仕入れが施設主任の個人名義で行なわれていたということは、それだけでその事業主体を判断する決め手となり得るものではない。しかも、原告大川、同北沢の如きは、独立採算制採用後も、しばらくは本部を通して仕入代金の決済をしていたのである。

本来、消費生活協同組合は、消費者のための、消費者による団体であつて、組合員の消費生活に結びついたものでなければならないから、施設の取扱商品のすべては、一律に本部で決定し、施設に分荷するよりも、各施設ごとに、消費者たる組合員の意向に応じて、取扱商品を決めることのほうが、より消費生活協同組合の本旨にそうものともいえるわけで、現に原告らの各施設についても、支部、婦人部、組合員によるこの点の要望と制約があつたことは、先に認定したとおりである。同時に、川崎生協では、昭和二五年から、統一仕入に適する商品についての共同購入を開始し、昭和二六年七月からは、本部に共同仕入委員会を設け、共同購入センターを建設して共同購入の充実をはかり、原告らは、いずれも共同仕入委員会の委員として、この活動に積極的に協力しているのである。被告は、共同購入による取扱商品は、全施設仕入金額の五パーセント程度にすぎないと主張し、これを軽視する。甲第三号証の三ないし五によれば、昭和二六年一〇月一日から昭和二七年三月三一日までの全施設の仕入商品が金一三五、〇五三、九九四円八四銭なのに対し、共同購入商品の分荷総額は、金五、九二七、二〇二円〇五銭であり、昭和二七年四月一日から昭和二八年三月三一日までの全施設の商品仕入額が金三三四、七〇五、三五七円八九銭であるのに対し、共同購入の分荷商品額は、金一八、八〇九、五六七円五〇銭であるから、全施設の商品仕入総額のうちに共同購入商品の分荷額の占める割合は、それぞれ四・四パーセントと五・六パーセントであつて、被告の主張するとおり、その割合は大きくはない。しかし、共同購入商品は、甲第三号証の三によれば、主として醤油、味噌、酢、ソース、食用油等の食料品と本炭、薪等の燃料であつたと認められるところ、甲第一六号証によれば、川崎生協の施設のなかには、これら共同購入商品と無関係の青果や魚類のみを取り扱う施設も多数存在し、また先に認定したように、共同購入商品と同じ種類の商品を扱いながら、共同購入に参加しない施設もあつたのであるから、右に述べた割合をもつて、直ちに原告らの施設を論ずることは妥当でなく、原告らの施設において、仕入のうちに占める共同購入商品の割合は、右に見た全施設の総仕入中占める割合に比べれば、はるかに大きいものであつたと推認される。

被告は、商品の販売代金も、施設主任が自由に決定し得たように主張するが、共同購入商品については、本部において、組合員に対する分荷価格が定められていたのであり、さらに、原告北沢の場合について認定したように、雨靴、洋傘、蚊張、ゆかた、毛布、足袋、毛糸など組合員の要望により、特に本部より取り寄せたものについては、施設の段階でのマージンは、一銭も許されていなかつたのである。施設主任の仕入れた商品の販売価格の決定については、原告岩淵、同見目の場合のように、支部組織の存在するところでは、支部の役員会等によつて制約され、特に原告見目の場合は、甲第一八号証の二によれば、取扱商品の種類ごとの差益率が支部の事業予算において定められており、施設主任は、この制約の下に、個々の商品の販売価格を定め得るにすぎず、また支部組織をもたない原告大川、同北沢、同小島の場合においても、川崎生協としてのおよその差益率は定まつており、その点については、組合員主婦等の監視や注文も多く、同原告らにおいて、全く自由に決めることができたわけではない。

これらの売上、仕入その他の取引が、日報等によつて本部に報告されていたことは、被告も争わないところである。被告は、それに対する本部の監査が不十分であつたため、本部は施設の経営内容を完全に把握していなかつたと主張するが、本部が原告らの施設の事業内容を把握し得ていたかどうかは、監査方法の適否によるというよりも、原告らが正確な報告をしていたかどうかによるのであり、この点について、原告らの報告が不正確であつたと断ずるに足りる証拠はなく、かえつて、組合本部に近かつた原告大川、同小島は、伝標類の整理を本部係員に委ね、また原告北沢は、毎月の残高試算表の作成について本部係員の指導を受けていたのであり、支部組織の整備した原告見目の施設においては、支部において、決算書等が作成されている。

なお、被告は、川崎生協において、統一経営の気運が譲成されたのは、本件課税問題発生後であると主張するが、その誤りであることは、先に認定したとおりである。

2  施設の剰余金について。

被告は、川崎生協の各施設の剰余金は、施設主任にそれぞれ帰属すると主張し、その理由として、川崎生協の決算書が本部会計と施設会計とに分けて決算されていること、各施設が独立採算制採用前に生じた川崎生協の負債を負担していないこと、施設相互の間の資金等の流通のないこと、組合への加入及び脱退時の清算が行われていないことを挙げるので、これを順次検討する。

(一) 昭和二五年四月から同年九月までの事業年度、昭和二六年四月から同年九月までの事業年度、昭和二六年一〇月から昭和二七年三月までの事業年度について、それぞれ川崎生協の決算書において、本部会計と施設会計とを分別し得る形で決算が行なわれ、本部会計における剰余金は、繰越欠損金に補填することとされ、施設会計の剰余金は、施設会計の次期繰越及び一部施設の無給家族労働者への期末手当にあてることが、総代会において決議されていることは、先に認定したところである。(これに対し、昭和二七年四月から昭和二八年三月までの事業年度においては、従来の本部会計と施設会計との二本立ての決算方法は廃され、川崎生協としての単一の決算書が作成され、その剰余金の処分も、従前のように施設会計のものは、施設会計に繰り越すことは廃された。)

しかし、決算書の作成方法は、技術的な会計処理の問題にすぎず、しかも、独立採算制が厖大な赤字をかかえながら、組合事業を継続して行くために、一応本部会計と施設会計とを分離し、施設ごとに、収支をつぐない、本部は施設からの繰入金によつて、赤字処理を担当することを目的とするものであつたのであるから、本部会計と施設会計とを分けて決算書を作成したからといつて、特に異とするに足りず、本部における赤字の整理の進展とともに、再び総合決算に復帰したとも考えられるのであつて、右に述べた会計処理をもつて、原告らが個人事業者であつたことの決め手となり得るものではない。

(二) 被告は、独立採算制採用前の川崎生協の負債を各施設が負担していないと主張し、川崎生協専務理事の証人森田三之亟の証言中には、被告の主張にそうかのような供述がある。

しかし、甲第三号証の二ないし四によれば、昭和二五年四月から同年九月までの事業年度の本部収入金八八五、四二六円五〇銭のうち金八二七、〇三六円五〇銭が施設からの繰入金であり、昭和二六年四月から同年九月までの事業年度においては、本部収入金一、八五四、五二三円のうち金一、一三六、〇〇〇円が繰入金で、昭和二六年一〇月から昭和二七年三月までの事業年度においては本部収入金一、四三二、一一三円八五銭のうち、金一、一八三、二〇〇円が繰入金であるから、本部会計は、施設からの繰入金をもつて、まかなわれていたものというべきところ、右各号証によれば、本部会計において、この繰入金によつて生ずる剰余金をもつて、独立採算制採用前の負債を返済していることが認められるのであるから、実質的に各施設が、これら負債を負担していたことは明らかであり、森田証人の供述も、各施設に対し、直接負債を頭割りに負担させるようなことはしなかつたという趣旨とも解されるのであつて、この点の被告の主張は、事実に適合しないものといわねばならない。

(三) 独立採算制が、各施設又は支部単位で収支をつぐなうことを目的とするものであつたことは、先に述べたとおりであるから、川崎生協において、他の施設に依存せず、原則として施設ごとにその事業を遂行するとの方針がとられたことは、格別異とするに足りず、それだけで、各施設の主任の個人事業と判断し得るものではない。問題は、特定の施設において、この方針に反し、負債が累積し、また施設従業員に対する給料が保障されないような事態が発生した場合、それに対して川崎生協が全体としてどのように対処したかにあり、この点に関する具体的事実が明らかにされて初めて、この点の被告の主張は意味を持ち得るものであるが、このような具体的な事実に基づく主張、立証はなんら行なわれていない。

(四) 次に、被告は、川崎生協への施設の提供及びその廃止時の清算関係を問題とする。

独立採算制採用以後、商人が店舖を川崎生協に施設として提供し、その施設の主任となつた際に、商品等の引継が完全に行なわれていなかつた事例の存することは、先に認定したとおりである。しかし、独立採算制採用前から施設主任である原告らについては、独立採算制まで川崎生協が全体として団体としての事業活動を営んでいたことは被告も争わないところであるから、独立採算制の採用とともに、被告の主張するように、施設における事業が施設主任の個人事業に変貌したとすれば、独立採算制採用の際、原告らが施設に存在した組合の商品及び什器、備品等を買い取つていなければならないはずなのに、かゝる事実は、本件全証拠によつても、なんら認めることはできない。もつとも、原告岩淵については、昭和二五年頃登戸配給所が閉鎖した際、同原告が主任の中野島分配所が従前登戸配給所を通して本部からの商品の分荷を受けていた関係から、その分の未払い約金五、六万円を支部役員に立て替えて貰つて、支払つたことがあることは、先に認定したとおりであるが、登戸配給所が閉鎖することになれば、同配給所として本部より分荷を受けた商品の代金を本部に納入すべきことは当然であり、その一部が中野島分配所に送られていたため、その清算関係を明瞭にするため、中野島分配所から分荷分の代金を登戸配給所に送り、これらをあわせて同配給所が閉鎖に伴なう本部との清算を完了したとしてもなんら不自然なことではなく、これをもつて、原告岩淵が本部から商品等を買い受けたことにはならない。(なお、この場合に、中野島分配所が同原告の個人事業であるとすれば、同支部役員がその金員を立て替えるようなことは期待し得ないところで、この事実は、中野島分配所と組合員との密接なつながりを示唆するもののように思われる。)さらに、原告らの場合ではないが、乙第二号証、同第一六、第一七号証の各一によれば、独立採算制採用前、施設主任で本部に納入すべき記給代金等を納入していなかつた者が、独立採算制採用時に、この金額相当分について、個人で約束手形を振り出すなどして、一応清算の形式をととのえたことがあつたと認められ、乙第七号証及び証人松冨善行、同木村傑、同鴨脚秀明の各証言によれば、国税庁において川崎生協を仮装法人として判断するに当たり、この事実を重視したことがうかがわれる。乙第七号証及び証人松冨善行の証言中には、この約束手形は、本部からの商品等の買取り代金の支払いのために振り出されたものであるとの趣旨の記載及び供述があるが、もしそうだとすれば、独立採算制採用時において、大部分の施設主任がこのような方法をとつているはずなのに、約束手形を振り出した者は特定の限られた施設主任である。また証人木村傑は、配給品その他売残り商品の腐敗等による損失分を施設主任が個人で負担したものであると供述するが、それは同証人の想像にすぎず、しかも、独立採算制採用前において、川崎生協が組合として統一的な事業を営んでいたことは、被告の自認するところであるから、その当時生じた損失を施設主任が個人で負担するいわれはない。結局これを合理的に理解するとすれば、施設主任が商品を売り上げ、その代金を本部に送付すべきであるのに、勝手に他に流用していたため、その責任を明らかにしたものと推認するのが相当であり、そうだとすれば、施設主任が個人として約束手形を振り出したとしても、なんの不思議もないといわねばならない。さらに、乙第七号証及び証人松冨善行の証言によれば、税務当局は、この約束手形にかゝる川崎生協の債権が、独立採算制採用後、川崎生協の債務整理の進行にあわせて、貸倒損として処理されていることをもつて、この事実は、右債権を対外取引として扱うものであつて、川崎生協の各施設が、主任の個人事業であることを示す重要な手掛りとなるものと判断したことが認められるが、右債権が前述したように、施設の経理とは区別された、施設主任個人に対する損害賠償としての債権であるとすれば、それが対外的取引と同様に処理されることは、これまた当然のことといわねばならない。

次に原告らの脱退時の清算について検討する。

原告岩淵の場合は、本部に対する給料等の債権に当てるため、桝等の若干の備品を留置した外は、ほとんどの商品備品が本部に引きあげられて、実質的に清算が行なわれており、原告見目の場合は、川崎生協と鹿島田第二支部との間で、清算に関する詳細な契約書が作成されており、いずれも問題がない。原告大川、同小島については、脱退時の清算が行なわれておらず、原告北沢の場合は、本部からの分荷商品について清算が行なわれているだけであるから、清算関係が不十分であることは否定できない。しかし、原告大川の場合は、川崎生協の都合で無理に施設を閉鎖されたものであり、原告北沢、同小島の場合も、本件課税問題に関する本部と同原告らとの間に混乱があつたところで、しかも、右は、いずれも昭和三〇年のことであるから、この一事のみをもつて、係争年度当時の同原告らの事業内容を直ちに個人事業と断定することはできず、そのためには、当時同原告らが商品の仕入、販売、利益の処分その他について、個人事業者にふさわしい主体性を持つていたかどうかが、あわせて検討されなければならない。

(五) 最後に、通常の個人事業者の事業利益に当たるものを、原告らがどのように処分していたかを、本訴に現われた限りで、考察する。

原告らが、本部に対し定められた繰入金を納入していたことはいうまでもないが、さらに、原告岩淵は、中野島支部の役員会及び家庭会の経費として、毎月合計金一、五〇〇円を支出し、原告北沢は、本部の指示によつて運動会、映画会等の組合の文化活動の経費及び組合の共同購入センターの建築費の一部を支出し、原告小島は、組合員の要求によつて、取扱商品の増加や商品の販売代金の引下げにあて、原告見目は、鹿島田第二支部の決定に従つて、組合員に対する醤油四合の配当や、利用高に応じた割戻しに当てている。

これらの事実は、原告らが被告の主張するように個人事業者であるとすれば、極めて奇異なことというべきであろう。

3  本部繰入金について。

被告は、本部繰入金は、本部経費をまかなうための賦課金的なものであると主張する。

しかし、本部繰入金は、先に述べたとおり、本部経費の外、川崎生協の独立採算制前の債務の弁済にも当てられていたのであり、その決定の基準は、各施設の売上によつたのであつて(この事実は乙第一五号証によつて認められる。)先に認定したように、施設によつて大きな相違があり(例えば、昭和三〇年当時、飯田長蔵の施設では、一カ月金二、〇〇〇円なのに対し、原告北沢、同小島の施設では、一カ月金一〇、〇〇〇円以上である。)、これを単純に賦課金と割り切ることはできない。

被告は、この繰入金の額の決定について、施設主任が大きな関心を持つていたことは、繰入金が施設の利益の前渡しでないことを示すものであると主張するが、繰り返し述べたように、独立採算制採用後は、第一次的には、各施設または支部単位で収支をつぐなうことを予定し、したがつて、施設または支部における組合員の活動は、施設または支部における剰余金によつてまかなうことが必要で、その活動を活発に行なうためには、そのための剰余金を確保しなければならず、その全部を本部繰入金にあてたのでは、当時の川崎生協の財政事情からいつて、本部では、繰入金を本部経費及び債務の弁済にあてることとなり、再び施設または支部の活動費として還元されないおそれがあつたため、施設または支部において、繰入金の額に関心を持つたとも考えられるのであつて、このことによつて、被告の主張をそのまま認めることはできない。(なお、施設または支部単位の活動の充実ということが、むしろ消費者の団体たる消費生活協同組合の趣旨にそうもので、剰余金の利用高割戻しという考え方からすれば、それが組合の団体性をなんらそこなうものでないことは、先に述べたところである。)

4  施設の現金管理について。

川崎生協のように、多数の施設が散在する場合に、現金の現実の管理を本部が直接行なうことは極めて困難なことであり、とりわけ、独立採算制によつて、各施設によつて収支をつぐなうことにした以上、川崎生協の本部が現実に施設の現金を直接管理していなかつたからといつて異とするに足りない。

問題は、形式的、物理的管理が何人によつて行なわれていたかにあるのではなく、実質的な管理の機能を川崎生協が持つていなかつたかどうかにあるのであり、換言すれば、施設における現金の存在を川崎生協本部が把握し得ていたかどうかにあるのであるから、原告らの施設について、川崎生協本部の現金管理がなされていなかつたというためには、原告らの施設における取引内容についての報告が不正確であつたことが具体的に主張立証されなければならないが、かような主張、立証はなにも行なわれていない。

したがつて、この点の被告の主張は、原告らが個人事業者であつたかどうかの決め手となり得るものではない。

5  施設の借入金について。

独立採算制採用当時、川崎生協は銀行、問屋等から取引を停止されていたのであるから、各施設において事業資金を調達するためには、施設主任の個人名義で借り入れなければならず、独立採算制の採用自体が、施設主任の個人的信用の利用という面を持つものであつたことは、先に述べたとおりである。しかし、このようなことは、当然のこととして放置されていたのではなく、先に認定したように、昭和二七年四月神奈川県労働金庫が事業を開始するようになると、同金庫と川崎生協の経営指導委員会との話合いによつて、川崎生協の全施設が定期預金に加入し、これを担保として融資を受けることとなつたのである。被告は、この事実は、川崎生協本部が施設主任個人の借入れを斡旋したものにすぎないと主張するが、川崎生協本部に、労金査定委員会が設置され、融資規定が作られ、また各施設の借入れについては、地区議長が連帯保証人となることによつて、その地域の全施設担当者が保証の責に任ずることにしていたのであり、甲第二二号証によれば、理事会において、ひんぱんに労働金庫の預金、借入が議題となつていることが認められるのであつて、これを組合の借入れとは無関係のもので、施設主任個人の借入れを斡旋したに過ぎないというのは、なお疑問の存するところといわねばならない。

原告岩淵の施設においては、前述の登戸配給所閉鎖に伴なう清算の際、組合の支部役員より金員の貸付けを受けているが、右事実は、施設と組合員の結びつきの強さを示すものではあつても、同原告の個人事業たることを示すものではなく、原告大川は、個人で他より資金を調達して製麺機とアイスキヤンデーの製造機を買い入れているが、右機械は、同原告の個人所有に属し、これを川崎生協に賃貸していたものであり、原告北沢は、家屋の拡張資金を実父より調達しているが、右家屋も同人の所有に属し、また原告見目は、自己の個人預金を事業資金の借入れの担保に供しているが、この事実も、独立採算制の意味した施設主任の個人的信用の利用の一形態とも考えられるのであるから、これらの事実もまた、原告らが個人事業者であつたと断定する根処とはなり得ないものといわねばならない。

6  施設主任の給料について。

独立採算制採用以後、施設主任その他施設従業員の給料は、川崎生協本部から現金で渡されず、本部の定めた額を施設の売上金のなかから取ることとなつたことは、先に認定したとおりである。

被告は、右事実を根拠として、給与の支給は仮装であると主張するが、給与の支給があつたかなかつたかは、本部より現金が交付されたかそれともこれに代えて、施設の売上金のなかから、本部が定めたところに従つて、これを控除する方式がとられたかによつて左右されるものではなく、被告主張のように給与の支給が仮装であつて、原告らが個人事業者であるというためには、原告らの個々について、具体的に原告らが給料額を上廻る生計費その他の支出をしており、その資金源としては、施設の事業利益以外には存在し得ないことが主張、立証されなければならないが、かような事実を認めるに足りる証拠は存在しないから、この点の被告の主張も決め手となり得るものではない。

7  施設の建物、設備等の組合への賃貸について。

被告は、川崎生協の施設の建物、設備の大部分は施設主任の所有で、これを組合に賃貸したことになつているが、独立採算制以後は、現実に賃料の支払いが本部から施設主任に行なわれていないから、この賃貸借は、仮装であると主張する。しかし、賃貸料として現金が本部から施設主任に交付されず、これを施設の売上金のなかから取得することとしても、先に見たような独立採算制の趣旨よりすれば、現金の授受が本部との間にあつたかどうかが、直ちに賃貸借を仮装したものと断定する決め手となり得るものではない。

原告大川は、昭和二七年頃から売上金の一部を積み立て、店舖部分を改造し、また原告見目は、鹿島田第二支部総会の決議により、昭和二六年一〇月から昭和二七年三月までの間の剰余金の処分として、金一二、〇〇〇円の店舖修理費を受けていること、他方原告北沢は、昭和二三年春頃自己の資金で店舖の拡張をしていることは、先に認定したところである。しかし、これらの事実も、その時の各施設の営業成績に応じて、成績のあまり良くない施設においては、店舖の改修費を所有者である施設主任の個人に負担させ、その代りに賃貸料を増額し、成績の良い施設については、組合がこれを負担する場合を認めていたとも解されるから(原告見目の場合に、経費としてでなく、剰余金の処分として店舖修理費が定められていることは、このような推測を裏づけるものである。)、このことも、それだけで被告の主張の決め手となり得るものではない。

8  利用組合員の実態について。

川崎生協の総代会や本部役員会などで、いわゆる員外利用の禁止がいく度も議論されていたことは、先に認定したとおりであり、また独立採算制採用後に、新たに川崎生協に施設主任として加入した商人のなかには、組合員の出資金を立て替え、名目的な組合員をふやす者があつたことも、先に述べたところである。

しかし、員外利用の禁止がいつも川崎生協の総代会や役員会で論じられていたということは、そのことを川崎生協が容認していたものではなく、かえつて、それを克服することによつて、消費生活協同組合としての実をあげるために真剣に努力していたことを示すものであつて、被告の主張するように、川崎生協が消費生活協同組合としての実質を失なつていたというよりも、なお消費生活協同組合として事業内容の充実を探究していたものというべきである。

ところで、原告らが施設主任となつたのは、先に認定したように、地域の組合員の要望に基づくものであり、その施設は、配給統制物資の組合員に対する配給施設として発足したものであるから、原告らが主任であつた施設は、独立採算制採用以後に組合施設となつたものと比べれば、はるかに組合員と密接に結びついていたもので、先に述べたように、支部組織をもつ原告岩淵、同見目の場合は勿論、支部組織のない原告大川、同北沢、同小島の場合にも、組合員の婦人を中心とする婦人部や家庭会が施設ごとに作られ、施設業務に協力しつつ、施設の経営を監視していたのであつて、被告の主張するように、これを一般商店と顧客との関係と同一視することはできない。

四、被告は、原告らが川崎生協の施設主任であつた係争年度及びこれに続く各年分所得税について、施設の収入を個人の事業所得として申告していることは、原告らがそれぞれ個人事業者であつたことを自認していたことを意味すると主張する。

しかし、係争年分所得税について、原告らの事業所得の申告が行なわれたのは、川崎税務署長と川崎生協の本部役員との政治的取引ともいうべき折衝の結果、各施設の事業を施設主任の個人事業として申告すれば、所得額について考慮するとの了解の下に、川崎生協本部において、施設主任に事前に個別的に承諾を得ないままに施設主任名義で申告したもので、原告らは、事後に説明を受けたにすぎないのであるから、これをもつて、原告らがそれぞれ事業所得を有することを自認していたものということはできない。

また、係争年分以降の申告についてみると、その申告は、いずれも本件の更正処分後に行なわれているのであるが、更正処分における認定所得金額と係争年分以降の所得金額を比べてみると、次のとおり、係争年分以降の申告所得額(弁論の全趣旨よりすれば、この申告額は、税務当局によつて是認され、これに対する更正処分等は行なわれていないと認められる。)は、係争年分の更正額よりもはるかに低額であつて、原告らが、係争年分同様再び争訟をもつて争うよりも、実質的に所得額について税務当局との妥協が得られれば、実利をとつて、事業所得を認めることにしたとしても、無理からぬところであり、しかも、その申告は、いずれも原告らが川崎生協を脱退した後に行なわれたものであることよりすれば、原告らが、そのような心情を抱いたとしても、とりたてて異とするに足りないところというべきである。

したがつて、これら申告の事業をもつて、直ちに原告らが係争年度当時個人事業者であつたと断定することはできない。

原告名

係争年分更正所得金額(円)

係争年以降分申告所得金額(円)

昭和二五年

同二六年

同二七年

同二八年

同二九年

同三〇年

岩淵

二五二、九〇〇

五一八、六〇〇

四三七、五〇〇

一七二、〇〇〇

二三六、九〇〇

二七二、〇〇〇

大川

五一四、三〇〇

五二九、九〇〇

三六三、五〇〇

三五〇、〇〇〇

三四四、三九〇

三二〇、〇〇〇

北沢

四三〇、四〇〇

七五五、八〇〇

九四五、三〇〇

六二八、八一三

六四〇、五三一

五七四、九四八

小島

四五四、二〇〇

四三八、三〇〇

更正なし

三一七、〇〇〇

二八八、〇〇〇

三九五、〇〇〇

見目

四六七、五〇〇

六三三、一〇〇

一、〇六三、七〇〇

三五三、五〇〇

五二三、四〇〇

第四結論

一  川崎生協が、厖大な負債を抱えながら、その事業を継続して行くためのやむを得ない手段だつたとはいえ、独立採算制を採用し、各施設において原則として収支をつぐなうことを求めるという統一体としては異例の措置を採り、そのため、川崎生協の消費生活協同組合としての事業活動の遂行を施設主任の熱意と組合員と施設との結びつきに述めながら、他方安易な商人吸収策を採つたために、川崎生協の施設のなかに、個人商人と異ならないような不良施設が続出し、しかも、これに対して、川崎生協本部において、従業員の教育や監査などの方法によつて一応監督、是正策を講じたものの、負債処理に多くの精力を必要とする本部としては、各個の施設に対して、個別的、具体的な監視の目が届かず、その結果、税務当局が、川崎生協の団体性を疑うことになつたのも、ある意味では、無理からぬことといわねばならない。

しかしながら、税務当局の調査をみると、不良施設の指摘に急なあまり、本部の事業活動をはじめ、消費生活協同組合が消費者の団体であることよりすれば、組合員と施設との結びつきの解明が不可欠のはずであるのに、これら諸点を著るしく軽視し(国税庁側の松冨、木村、鴨脚証人の証言内容よりして、この事実は明らかである。)そのため、川崎生協を組織的に捉えることが不十分なままに、不良施設の存在を不当に一般化し、各施設のそれぞれの特殊性を度外視する結果となつたことは否定できないところである。

川崎生協のように、一〇〇以上の施設が散在している場合に、その一々について、具体的に事業内容を検討することが、極めて困難であることは、当裁判所もこれを認めるに吝かではない。しかし税務当局が、右に述べたような諸点についても、これを十分に解明する努力を払つていれば(ちなみに、松冨証人の証言によれば、国税庁の調査においては、川崎生協の監督官庁の意見すら徴されていない。)、川崎生協の施設のなかでも、原告らのように独立採算制採用以前から存在した施設と、それ以後に既成商人が施設主任となつた施設との間に意識その他の相違のあることは判つていたのであるから、(松冨証人の証言)、なにを重点に、どこを解明すべきかは、自ずから明らかとなつたはずであり、少なくとも、審査の請求のあつた事案については、あらためて個別的、具体的な検討をすべきことは、税務当局として、当然の債務であろう。

二  川崎生協が係争年度当時少なからざる不良施設を抱え、その事業も生活協同組合として理想的に運用されていたものでないことは、すでに述べたところから明らかであり、原告らが、川崎生協の従業員として、係争年度当時給与所得者であつたということについて、一点の疑念もないというわけではないことは、これまで述べたところからも、ある程度窺われるであろう。しかし、本訴の問題は、被告が認定したように、原告らが個人事業者であつたと断定し得るかどうかである。そして、このような観点から見る限り、第三において詳細に検討したとおり、原告らを個人事業者と断定するには、なお多くの点で疑問があり、本件に現われた全証拠をもつてするも、未だ原告らは、係争年度当時個人事業者であつたと認めることはできないのである。

したがつて、原告らを個人事業者として、原告らに係争年度当時事業所得があつたものとしてなされた被告の各審査の決定は、いずれも違法という外ない。

三  よつて、原告らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも正当であるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。(なお、被告は、昭和三六年一二月一三日付答弁書(二)において、原告小島の昭和二七年分所得税に関する審査の決定の取消しを求める訴について、却下の判決を求めているが、右部分の訴は、昭和三五年五月二一日の第二四回準備手続期日において、原告代理人より、原告小島の昭和二七年分については、本訴において取消しを求めるものではない旨述べて、これを取り下げることを明らかにし、同期日には、被告代理人も出頭していて、右期日より三箇月以内になんらの異議も述べられていないから、原告小島の昭和二七年分所得税の審査の決定の取消しを求める訴は、すでに取下げによつて終了しているものといわねばならない。)

(裁判官 白石健三 浜秀和 町田顯)

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